命日に

子供時代の兄妹の写真を観ていたら、ふと思い出したことがあった。
あの子は今、どうしてるだろうなと考えた。

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その場にいた喪服の人たちの中で、地味だが色つきのワンピースを着ているその子の姿は目を惹いた。
年の頃は3〜4歳だろうか。おそらく妹の友達の子供だろう。手を引いている女性の顔に見覚えはある。しかし名前は知らない。

僕たち遺族は棺への献花を先に済ませ、参列の方々が献花をするのを観ていた。
その時僕は、先ほどの自分の言動に恥じ入っていた。
自分が献花をした後、色とりどりの花をまとった妹の姿に、思わず「奇麗だよ」とつぶやいてしまったからだ。
馬鹿か、俺は。これほど不穏当な言葉があるだろうか。そうだ。馬鹿だ、俺は。
そんなぐるぐると渦巻く自己嫌悪の中、献花の列は続いていた。

女の子の手を引いた女性が来た。
棺に花を手向けると、僕の傍らにいた妹たち(長女と次女)の肩に手をやり、泣き崩れた。
なんでこんなことになっちゃったの?と言うのが聞こえた。
妹たちと友達は抱き合って肩を震わせていた。横にいた母も娘たちの姿を正視できず、うつむいてハンカチで口元を覆っている。


いたたまれなくなり目を逸らすと、傍らにいた女の子が目に入った。
ハッとした。
彼女の目に、仄暗い式場内の灯りでもはっきり分かるほど、大粒の涙が溢れてきたのが分かったからだ。
先にも書いたが、その子はまだ3〜4歳だ。
どれだけお母さんが妹と仲が良かったとしても、妹と過ごした時間はそれほど長くはないだろう。
いや、それ以前に、まだ死の意味も残酷さもよく知らないだろう。
そんな子が、こんな涙を流している。
彼女は今、自分が今なぜ泣いているのかもよく分かっていないのだろう。
みんな泣いている。お母さんも我を忘れて泣いている。
なぜだろう、なぜみんなこんなに泣いているんだろう。

人は、目の前の事象に対して自分が無力だから泣く。泣くことしかできないから泣くのだ。「悲しい」は感情の呼び名であって原因ではない。

父の葬儀の時にそう考えたことを思い出した。
今のこの子は、まさにそうだった。

そのうち彼女は右の手のひらで右目をぐい、と拭った。
次に左の手のひらで左目を拭った。
その間にも右目からは涙があふれ、また彼女は右手で右目を拭う。そして次に左目を拭った。
拭った涙はどんどん彼女の顔や髪を汚していった。

それを見て僕は気が付いた。
そうか、この子はまだ、涙の拭き方も知らない歳なんだな。
僕はまたいたたまれなくなった。

君はまだわからないと思うけど、今日はお別れの日なんだよ。
君のお母さんの大切な人が、いなくなっちゃったんだ。
僕はいつしか歯をきつく食いしばっていた。
そうしないと僕も涙が流れてしまうと思ったからだ。


お母さんは「気を落とさないで」と妹たちに最後に告げ、また子供の手を引いて帰っていった。
僕は彼女の小さいワンピース姿を見送った。すぐに親子の姿は献花の列に紛れていった。
僕はまた次の参列者に目をやった。ようやく食いしばった歯の力を抜いた。

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これが今日思い出したことだ。あれから4年が経った。
あの日、涙の拭き方を知らなかったあの子は今、どうしているだろう。

成長とは、転んでも立ち上がれる力を養うことだと思う。しかし、転んだ痛さに涙が出ることもある。
だから人は、立ち上がり方と同じぐらい、涙の拭き方も覚えなければならない。自分ではどうしようもない事象に直面する時が、生きていればこれからも何度もあるのだから。
あの子は今、元気でいるだろうか。僕らは4年前より、涙の拭き方が上手になっただろうか。