「好き」という業を背負った者たち

横浜BLITZでもらった小冊子

横浜BLITZでもらった小冊子


※最近起きたあるアーティストの事件から感じた事と自分の経験談を書いています。下記の内容に関してはいかなる違法行為も容認、助長する意図はない事を、念のため先に述べておきたいと思います。

僕は、30年来岡村靖幸さんのファンだ。
高校3年間という、おそらく人生で最も多感な時期を、岡村さんの音楽と共に過ごした(当時最も好きだったのは「yellow」に収録されている「Young oh! oh!」という曲である)。
ただ、80年代後半の高校生(しかも僕は田舎の高校生だったのだ)には岡村さんの曲の世界観や歌詞はちょっと性的要素が強すぎて、ファンはどちらかというと「異端」だった。
また、岡村さんと言えば今話題の「シティーハンター」2ndシーズンのED「SUPER GIRL」が有名だが、残念ながら当時僕の住んでいた地域では放映されていなかった(※ここはちょっと記憶が怪しい。もしかしたら僕が観ていなかっただけかもしれない)。なのでみんなが知っているヒット曲といえばCMで使われていた「だいすき」しかなかった(しかしCMソングなので大体サビしか知られていなかった)。だからクラスの友達と好きな曲の話で盛り上がる、みたいな経験はした事がない。
岡村さんは1stアルバム「yellow」から4thアルバム「家庭教師」までは毎年アルバムをリリースしてきた。これは個人的には僕が中学~高校卒業までの期間である。そこから少し時間が空いて(5年後)「禁じられた生きがい」をリリースした。
しかしそこから次のアルバム「Me-imi」までは9年間時間が空くことになる。この期間は川本真琴等、他のアーティストのプロデュースで名前を聞くことが多かった。また、この期間の最後の方で石野卓球とのコラボレーション「come baby」が発表された(「松本紳助」のED曲だったので知っている人も多いと思う)。当時は「久しぶりに公に名前を聞いたな」という感想を持った。(※長年のファンと言いながら、僕はファンクラブには入った事が無い)

アルバム「Me-imi」リリースの翌年(2005年)に岡村さんは薬物で逮捕された。それから2007年まで公で名前を聞くことはなかった。

2007年3月に「AP BANG! 東京環境会議 vol.1」に岡村さんが出演するという事を、mixi岡村靖幸コミュで知った。友達の岡村さんファン(masha君という)にその事を伝えたところチケットを取ってくれて、二人で新木場のagehaに観に行った。
主催の小林武史が「僕が最も呼びたかった人」と紹介し、僕達「往年のファン」が感涙するようなリストで岡村さんは復帰した。岡村さんは、パフォーマンス後にひと言も話さずに風のように舞台を後にして、皆ちょっと呆然としていた。
(当時mixiに書いた日記はこちら)

同年の9月に今度は「Music Complex 2007」というフェスに岡村さんが出演すると知り、またmasha君と参加した。このイベントの直前には新曲「はっきり もっと 勇敢になって」がリリースされ、ジャケの岡村さんは(往年とまではさすがにいかないが)痩せて、さっぱりと髪を切ってカッコ良くなっていた。
岡村さんのパフォーマンスの後(次はスカパラだった)に、晩御飯を兼ねて何だったかは忘れたが、屋台で食べ物を買った。屋台のお兄さんに「スカパラはいいんすか?」と訊かれ、「岡村さん目当てだったんで」と笑って答えたら、「天才ですよね。早すぎたんですかねー?」とよく分からない事を言われ、適当に相槌を打って芝生に座って「何か」を食べた。
ふと目をやると、男女4人のグループが居た。4人とも同じ黒いTシャツを着ていて、胸に見覚えのあるハートのロゴがあった。4人は岡村さんファンだった。声を掛けてみると、青森から遠征で来たとのことだった。
ちょっと感動した。フェスのパフォーマンスなので、やったのは5曲ぐらいだ。数百円の交通費で会場に来られる僕とは違い、この時間だとおそらく今日は宿泊だろうし、もっと参加は大変だった筈だ。
ファンは飢えていて「復活」を心待ちにしていたのだ。
(当時mixiに書いた日記はこちら)

そして同年10月、ついに全国ツアー TOUR'07 「告白」が開催された。
今回もmasha君と一緒に、僕達は横浜BLITZの2日目に参加した。
当時のmixi日記に、僕はこう書いていた。

おりからの台風接近のため、新曲ではないが、まさに嵐の中での決行だった。で、横浜BLITZの周囲は年齢層の高い(僕もそうだ)一団が濡れ鼠になって列を作っていた。 
昨日は初日で45分押しだったらしいが、今日は二日目ということもあり入場は結構スムーズに行ってたみたい。

当時の僕は「35の中年(!)」だった(この年齢は岡村ファンにとって特別な意味を持つ数字なのだ!)。
冒頭の写真は、当時BLITZでもらった小冊子の1ページである。


ライブの内容はもちろん素晴らしかったし、興奮した。
でも今回なぜ僕がこうやって長々とアーティストへの個人的な思いと、10年以上前のライブの事を、2019年の今になって書こうと思ったかというと、以下の事を思い出したからだ。

今回のセットリストには「友人のふり」という曲が入っていた。
これは、ライブの中盤にバンドやダンサーが一旦下がり、岡村さんの弾き語りで歌われた。1989年リリースの、僕達古くからのファンにとってはまさに「往年の名曲」である。バラードなので、自然と静かにオーディエンスの僕等も歌い始めた。
この曲は僕ももちろんそらで歌える。歌詞を書き出せるかは分からないが、イントロから通して歌えば次のフレーズが自然と口をついて出てくる、という類に聴きなれた曲だ。
なので多分僕達は少し前のフレーズで、次の歌詞の存在に気が付いた。そしてみんなで声を揃えて歌ったのだ。

でも いつでも僕 君の味方さ ほら

おそらく色々な思いが今BLITZにいるみんなの胸に去来していただろう。僕もそうだった。なんて事を言わせるんだ、という思いと、これが今、岡村さん本人に向かって直接言えるという幸運と、ずっとファンでいて良かった、こんな時間を共有できた、という思いと、今改めて言葉にするとそんな感情だろうか。
(当時mixiに書いた日記はこちら)

今回、ピエール瀧の薬物事件により、電気グルーヴの楽曲配信の停止がレーベルから発表された。つい先日の新井浩文の暴行事件の際も、出演映画公開の延期や過去作品の配信停止の処置が取られTwitter等で物議を醸したが、その直後の事という事もあってか、今回はさらに「作品に罪はない」という意見が広く大きく叫ばれている。
レーベルの処置ついての是非や、「作品と作者の切り分け」については本論とは趣旨がずれるので述べる気はない。

ただ、BLITZで岡村さんに「いつでも僕君の味方さ」と歌った僕達ファンは、作品と作者の切り分けどころか、作者の人生と負っている「物語」も含めて(全肯定はもちろんしないが)好きになってしまった人達なんだよな、と思ったのだ。

何かを「好き」でいること、ファンでいる心理というのは、一つの業みたいなものなのかもしれない。そんな事をここ数日考え、この文章を書きたくなった。

※できるだけ正確に書いたつもりですが、時系列等間違っている個所があるかもしれません。また、上記はあくまで僕の感じた事であり、全ての岡村靖幸さんファンが同じ思いを抱いている(過去に抱いていた)とも考えてはいません。念のため記載しておきます(多分僕は熱狂的なファンの方たちから見れば「ニワカ」と呼ばれる部類に入るとも思っています)。
※2007年の3回のライブ参加についてmasha君の尽力に感謝します。