無能を思い知らされる

「平和というのはな、キルヒアイス。無能が最大の悪徳とされないような幸福な時代を指して言うのだ。」

銀河英雄伝説

どこで見たかもう覚えていないが、昔ある写真を見た。東欧あたりの国でひどい不況のため職を求める失業者たちが街にあふれていて、その中の一人に焦点を当てている。
その人は手書きのメッセージを掲げていた。
写真の下のキャプションに「私は3ヶ国語が話せます。技術があります。仕事をください」みたいなことが書かれていた。

僕は、つくづく自分が今まがりなりにも(豊かではないにしろ)普通に生活ができているのは、日本に生まれたからだろうと思っている。自分に「これだ!」という能力があってそれで社会に貢献できていてその対価で、とは別に思っていない。なぜなら上記の写真を見た時に僕は「俺は日本語しか話せない。技術もない。俺はこの失業者の暮らしている街では彼らより無能なのだ」と思ったからだ。
(それは僕が「印刷」というある意味言語の壁に守られた仕事に片足を突っ込んでいることも原因かもしれない)

日本では無能でもそれなりに暮らしていくことは可能である。

ただしその環境維持のためのコストは莫大だ。それは税金と言う直接的なものではなくて、大概のことではデモも起こさずガマンしているなどといった間接的なものだったりするのだが。

先ほど言語は壁だと書いた。壁は外敵から攻撃を防ぐ作用があるが、それは同時に「中にいる限り」こちらからも攻めにくいということでもある。
とっくにそんなことに気が付いている人たちは壁の向こう側に行ったし、これからもそれは増えるだろう。

豊かさを「勝ち取った」世代が築いたものをその世代が一代で食いつぶそうとしている。それはそれでいいことなのかもしれない。僕らの世代は「豊かさ」を自ら勝ち取っていないから大切にしなかったのだし。

まったくまとまらなかった。