野生のエロ本とキヨテル君の話

togetterにこんなまとめが掲載されていた。

『野生のエロ本』の生態学

僕は、これを読んであることを思い出していた。
高校の同級生にキヨテル君という奴がいた。
結構仲が良く家に遊びに行ったりするくらいの間柄だったが、最初に彼の部屋に行った時、不思議に思ったことがあった。
雑誌・単行本・小説と、ほとんどの印刷物がしわくちゃになっていたのだ。いったん水を被って乾いた形跡があった。
“この部屋は雨漏りでもするのかな?”と思って尋ねてみたのだが、「…いや、それは、ちょっとね…」と言葉を濁された。

その疑問は後々になって判明した。
キヨテル君は、「水に濡れて乾いた本」で異様に興奮するのだそうだ。
これは、本の内容には関わらずそうらしい(なにしろ「ドカベン」すら、そうなっていた)。浸水・乾燥にも独自の方法があるそうだ。

きっかけはよくある話だ。
小さい頃、雨上がりの神社で雨に濡れパリパリになった成人誌(彼曰く「週刊ポスト」だったらしい)を見つけたのだ。
その感動を忘れられずキヨテル君は神社通いをするようになった。そして神社〜河原〜林道と探索ルートは次第に広がって行き、最初はグラビア自体に興奮していたのが、いつしか本自体に対するものに変わったらしいのだ。
数年前再会した時に、最近もまだやってるのかと訊いてみたこところ、

「パソコンの画像処理ソフトで写真を一発であの感じにできるようになった。いい時代になったよ」

と嬉しそうに語っていた。



上記全部、嘘である。
僕にはキヨテル君という友達はいない。



これらは中学ぐらいの頃「こんな奴がいたら面白いな」と考えたネタだ。その時はそう思ったが、今だったら「ふーん、まあ、そんな趣味の人もいるかもね」で片づけられてしまうだろう。
キヨテル君は、「異常」だろうか。それとも「普通」だろうか。

「普通」ってなんだろう、と思うことがある。
基準はないし、そんな線引きに意味がないことも解っている。
たとえば法律とか精神医学とか、「普通」に対してなんらかの基準を作らないといけない分野もあるが、それも基礎となっているのは統計上のことに過ぎない。

過去に何人かの友達と話をする機会があった。年齢はみな同世代だが、それ以外のバックボーンはバラバラだ。
だが、ものの見方とか、物事への取り組み方とか、要するに生きるということに対しての姿勢はみな似ていた。
「どうも、僕が違うらしい」
と思うようになった。

僕は、「バランス」というものを重視する人間だ。思想にしろ、趣味嗜好にしろ、何かに偏りたくはないとずっと思っていた。いわゆる「中庸」である。これは、僕に抜きんでた何かの才が無いことも関係しているだろう。
そういう発想をする人間なので、「人と違うかも(しかもちょっとダメな方にだった)」と思ったのは結構衝撃的だった。

人とは話してみるものである、とまた思った。