道具と機能とヒトの理解

今日は、部屋を明け渡す日である。
昨日まででとりあえず片付けと荷物の整理を終えた。
今朝は朝から電気ガス水道の停止をした。
電話はおとといから止まっているので、ネットはもう使えていない。これはiPhoneで書いている(なので細かいタグはつけない)。

今は荷物の引き取り待ちだ。
ネットを3Gでつらつらと見ていたが飽きてきたので、ベランダでタバコを吸いながら外を眺めている。

なんという非生産的な時間であろうか。
うんこ製造機と言われてもまったく反論できない。

しかしだ。
こんな時でも腹が減るのだ。
「何もしていなくても腹は減る」という当たり前のことに久しぶりに気が付いた。
実に不思議かつ不条理なことだ。

人間にも省電力モードみたいなものが欲しいものである。
(こんなくだらないことを考えている場合ではないのだが、小人閑居してなんとやらとはよく言ったものだ)

ふと、身近にある道具の多くは根本的に人間の身体能力を拡張したものである、ということについて考えた。例えば僕はパソコンを使い始めた当時は、それが分類として「計算機」であることが理解できなかった。その後内部を多少知るようになったのだが、確かにパソコンは計算能力を極限まで進化させたものだろう。同じように省電力機能に「スリープ」などの名前がつけられているのも、理解のしやすさの点から言っても合理的な話だ。

僕が初めて触れたコンピュータはレナトスという集版システムだった。ディレクトリというものがよく分かっていなかったので、「階層」という説明が理解できなかった。
理解できたのは、「フォルダとファイル」のアイコンを見た時だ。
「格納するもの」と「格納されるもの」という関係が一目で分かって、感動したのを覚えている。
思うに、GUIに「フォルダとファイル」というアイコンが与えられていなかったら、パソコンは今みたいに一般に普及してなかったんじゃないだろうか。

そんなことをつらつらと考えていた。
荷物の引き取りはまだこない。
こんな駄文考えていても腹が減るのが口惜しい。