instagramに投稿した写真から思考検証をしてみる
少し前からinstagramという写真投稿のwebサービスを利用している。僕はiPhoneのカメラで撮影後に、iPhoneアプリでこのサービスに投稿している。ただし投稿できるのは正方形に近い比率である。なので写真の一部をトリミングする必要がある。
以下の4つの写真は、
左…元の写真 →→→ 右…トリミングしてinstagramにアップした写真
である。
(1)
(2)
(3)
(4)
(なんでこんなことをしたか)
僕は仕事で平面のデザインをする。必要に応じてコピーライティングもしたりする。両者に共通するのは情報の編集という作業だ。編集という言葉は規模の大小や媒体に限らずメディアでは広く一般的に使われている言葉だが、それだけにとらえ方も各人さまざまである。僕の場合は、編集とは基本的に「捨てる」作業である。「何を捨てるかを決定する工程」と言った方が正確かもしれない。
震災後に、与党に対する論調が偏向していると言われている新聞があったりしたが、同じ現象に対して何を捨てる(つまり最終的に何を「拾う」)かの編集によって情報に対するスタンスが分かる。よく言われているように、完全な中立(及び客観性)というものはあり得ない。トリミングというのは編集の「分かりやすい」例である。トリミングはいつも直感的に行っているが、僕が元の写真のどこを捨ててどこを拾ったかを検証してみれば、その写真で何を見せたかったのかを検証できる。つまりその時に何を考えていたのかが分かるのではないかとちょっと興味を持ったわけだ。これらの風景は、僕が産まれてから3歳まで育った団地である。公営住宅だが、今ではすぐ横に公営のマンションが建ち、大方の人はそちらに移ってしまい、もうほとんど誰も住んでいない。分かりやすすぎて拍子抜けするが、僕は、思い出の場所がさびれてしまったことの寂しさを表現したかったのだろう。
おそらくこういうことを考えたのだ。
- 鮮やかな色の花とくすんだ壁(現在と過去)の対比
- 恣意的に配置された雑草(いわゆる「荒廃」のイメージか)
- 路地の奥という「過去と現在」の遠近感
- 枯れかけたアジサイ(2と同じ)
そもそもシャープやコントラストのフィルタがあざとい。こういうのを偏向報道と言うのだろう。(なんだろう、この笑いのポイントを説明する時のような気恥ずかしさは)
しつこいようだが、こういうわけで、関東を離れることになった。それに伴い、通常出勤が終了した6/20以降はお世話になった色々な方々にお会いしにいった。僕は今いったん日常が途切れたような形になっているが、もちろん周りの方々はそれぞれの日常が現在進行形で進んでいて、僕はその一地点にお邪魔しているような感じだ。おかしいのはこっちなのだが、まだ違和感に慣れないでいる。
この件はまた総括させてもらいます。