バレンタインデーの翌々日に思う

父が死んだ日の夜、父のいる部屋の火を絶やしてはいけないとのことで兄妹揃って枕元で番をした。
夜も更けた頃に妹が「もっと親孝行すればよかったよ」とぽつりと言った。
おそらく答えを求めての言葉では無かったのだろうが、僕は「親孝行ってのは何かをしてあげることではないと思う」と言った。
人生の半分以上を親元を離れて暮らしている僕が言うのもおこがましいのかもしれないが、僕も昔は妹のように考えていた(実際僕は、旅行に連れて行ったりだとか世間一般に言うところの「親孝行」らしいことはほとんどしたことがない。むしろ四十を前にした今でも心労をかけてばかりである)。
しかし冒頭で妹に言ったように親孝行とは決して「何かをしてあげることではない」と思うようになったのは、自分に子どもができてからだ。これははっきり考えが変わった。

父が葬儀の時に思ったが、親孝行とは必ずしも「何かをしてあげる」ことではないのだ。自分が親になって改めてそう思った。Fri Apr 23 18:15:01 via movatwitter

そしてさらにこう思うようになった。

若い頃、自分は親孝行らしいことを何もしていないなと思っていたが、親孝行とは決して「何かをしてあげること」ではなかったんだということを父の葬儀の時に思った。そして自分に子どもができてから、子どもにとって最大の親不孝とは「幸せにならないこと」であると思うに至った。

「最大の親不孝は、幸せにならないことだ」ということは今でもそう思っている。*1しかしこれは子どもとしての視点だ。僕は母の息子でもあり、同時に子どもの親でもある。親のである今の自分としては子どもに「幸せになることが、最大の親孝行である」と考えていてほしいと願うことが正しいのかもしれないと思うようになった。「子どもは親を選べない」とよく言われるように、親も子ども本人に意思を聞くことはできないまま子どもは産まれてくる。これはすべての親子が等しく通る道だ。
子どもに「勝手に産んだくせに」と言われて反論できる親はいない(する親はいるだろうが)。しかし子どもが幸せになってくれれば、初めて親はそれが自分たちのエゴではなかったということを感じることができる*2

それで、前にこんなつぶやきをしたことを思い出した。

高校生の時に父親と口喧嘩になって、何も言い返せず詰まってしまったのだが、僕を見かねた父が「そういう時は、?誰も産んでくれって頼んでねぇ!?って言うんだ」とよく分からない助け舟を出してくれたのを思い出した。父さんごめんな、張り合いの無い息子で。Tue Jul 20 11:45:23 via Silver Bird

そう言うと驚かれるのだが、生来鈍いせいか、またはものぐさで今あるものを「こんなものか」と受け入れる性分のせいか、僕は親に対して上記のようなことを思ったことがない(もちろんそういう考え方があることは知っていたし、友だちが親にそう言っているというのを聞いたこともあるが)。
いや、違うか。やっぱり僕は幸せな子ども時代を送っていたのだろう。それを陰ひなたで支えてくれた両親がいたのだ。今の僕のように、子どもであり親でもある父と母が。

一昨日はバレンタインデーだった。家に帰ると、食卓にこれが置いてあった。
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やはり、子どもが元気で笑っていてくれたら、今はそれが一番の親孝行であるということを改めて思った。
そんな今年のバレンタインデーだった。

*1:そういう意味では僕も親不孝な面もあるのかもしれない。

*2:と、思う。それがどういうことなのかまだ分からないが。