きなこもちと純粋理性批判

また聞きだが、僕の友達(の友達)は前世を観てもらった時、
「きなこもち」です、と言われたそうだ。
その話を聞いた時、「つまりきなこなのか?モチなのか?大豆か?餅米か?」と非常に混乱した。

モノの本質はどこに宿るのであろうか。
たとえば、ふつう誰かが僕を見ても「あ、60兆個の細胞だ」とは思わないだろう。僕自身は細胞からできているのだが、それにも関わらず今の時点(死んだらまた別だが)での僕は「人間」とか「アジア人男性」とか「中年」とか認識されるのだろう。
これは、神道の「森羅万象の八百万に神が宿る」という理念に通じる。同じ「木々」を見てもその中の一本の木の中に神を観る人もいれば、それを「森」としてそこに神を観る人もいる。つまりは信奉する側の認識の範囲によって本質が変わるということである。
インターネット検索分野で遅れを取る日本は画像検索分野で世界に先んじようと産学協同で研究を進めているそうだが、画像の認識と特定についても同じ事が言えるだろう。

カントは、『「経験を生み出す何か」「物自体」は前提されなければならないが、そうした「物自体」は経験することができない、と考えた。物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。(wikipediaより)』と考えた。
きなこもちも、60兆個の細胞も、木も森も人間によって前提されたものに過ぎない。たとえば、きなこもちを知らない人にはそれをきなこもちと認識することはできない。
そう考えると,「物自体」は認識できないという考察も理解できる。

なんでそんなことを考えているかというと、前世占いブームの次に来るのはなんだろうなとふと考えたからだ。
単純に「来世占いかな」という結論に達した。

来世占いってどんな感じだろう。
たとえば、鑑定依頼人の顔を見るなり「惜しいっ! あなた次はいいんだけど、今期は無理だねー。 んー、いいモノ持ってるんだけどねー」とか、そんな感じだろうか。

(来世占いはすでにネット上にも存在していたが、このようにふざけたものではなかった)