大人の定義
成人の日ということで、テレビではいつもの質問をしている。
「大人になったと思ったのはどんな時ですか?」
というアレだ。
よくあるのは、「ビール(もしくはコーヒー)がおいしいと思うようになった」とか「自分でお金を稼ぐようになった」とかだろう。
僕の持論はこうだ(これは、小学生の頃から変わっていない)。
「何処にいても一人で家に帰ってこられるのが大人」である。
なぜそう思うに至ったかというと、こうだ。
小学生の時、友達と奈良にバス旅行に行った。帰りのバスの車中、友達(年上)の一人が「ここで降りて一人で帰れるか?」という提議をした。彼は自分は帰れると豪語していた。 お金も旅行の小遣いの残りの数百円しか無いし、今いるところがどこかを知る術も思いつかない。僕は無理だと思った。彼は年上ということもあり「おとなだなあ」と思った。
それ以来、僕の大人の定義は「何処にいても一人で家に帰ってこられる人」ということになった。
僕は子どもの頃から、無類の方向音痴である。
- 同じ場所で2回迷子になったことがある。
- 一本道のアーケード内で帰り道がわからなくなったことがある。
- どこかに地図を見て行く時、地図を回しながら見る。
(僕の頭に入っているのは、日本の“白地図”だ)
ちょっと前に流行った「地図を読めない女、話を聞かない男」という本だったかによると(読んでないが)、大抵の男は現在地を頭の中で俯瞰図として見ることが基本的にできるそうである。女性はそれができない人が多いらしい。 僕も同じだ。
思想というものは、その人の身体的(あるいは社会的)条件から自由になれないという。僕の場合は、「方向音痴」という身体的(?)条件により、上記の持論を持つに到った。
しかしそれでは僕は一生大人になれないことになってしまうのだが、まあ、例え方向音痴でも機知があれば現在位置を把握し、帰る手段を講じることはできるわけで、僕が言いたいのはむしろそっちの方だ。
24のジャック・バウアーのようにどのように困難な潜入先からでも必ず帰還するのが大人なのだ。
情けないことであるが、どちらにしても僕はまだ大人ではなさそうだ。