「不謹慎」と「不愉快」
昨日、このまとめを見た。
実は発端となったつぶやきはリアルタイムで見ていた(高広さんは前からフォローしていたので)。その後のリプライでいろいろな人とやり取りをされていたのも追っていた。
そもそものつぶやきについてだが、僕は特に「一回死んでよし」という部分に違和感は感じなかった。その程度の感受性だと言われればそれまでだが、文脈を見れば「痛い目に逢ってこい」ぐらいのニュアンスだと思う。この言葉で別に業界がどうとかという話でもないだろう。
また、乙武さんの「死んでよし」という言葉を使うこと自体がよくない、という意見についてもそういう考えの人もいるだろうということは理解できる。
両者の考えの違いについて是非を言いたいわけではない。このまとめを読んであることを思い出したのだ。
震災直後に、こんなつぶやきをした。
その頃はまだ各地で余震が続いていた。被害の状況も明らかになってなくて、震災の「はじまり」がいつ終わるのか誰も分からない、そんな状況だった。
twitterではユーザたちがそれぞれ「有益」だと思われる情報を頻繁にRTし合うことが盛んになっていて、TLは「非常事態」の様相を呈していた。
テレビではスポンサーがCMを中止してACのCMが繰り返し流され、それに象徴されるように世相は一様に自粛ムードになっていた。
そんな折、ジャーナリストの佐々木俊尚氏がレストランで食事をしたことをtwitterでつぶやいたところ、それを「不謹慎だ」とするバッシングに逢っていたのを知った。また、僕は僕で自分のTLに回ってくるつぶやきに件のバッシングに似たようなものを多く見ていて、違和感を感じていた。自分なりにその理由が分かったので上記のことをつぶやいた。
このつぶやきは700人近くの人に公式RTされた。そんなことは初めてだったので、おそらくたまたま「時流」というやつに瞬間的に乗ったのだろう。
気に入らないことを言う人がいれば「不謹慎」という言葉で黙らせることができる(これはかなり悪意のある言い方だな)、一部の人はそんな状況に飽き飽きしていた。だから僕のつぶやきはおおむね共感されたのだろうと解釈している(中には批判目的でRTした人もいたのかもしれないが)。
このつぶやきの直後にも書いたのだが、あることを「不謹慎」だと思う気持ちの源泉は「こういうことを自分が言われたらいやだな」ということなので、その想像力は尊重されてしかるべきだと思う。ただ、「不謹慎」という言葉は「これは自分がそう思っているわけじゃないけど」と暗に言っているわけで、主体を他に転嫁している。だから反論ができない(意味が無い)。無敵の言葉である。
冒頭のまとめを見る限りでは、誰も高広さんに「不謹慎だ」とは言っていない。皆自分の言葉で反論している。例として適当ではないかもしれないが、僕がつぶやいた『「不謹慎」って言うぐらいならはっきり「オレが不愉快なんだ!」って言えばいいんだよな。』というのを実践するとこうなることもあるということだ。
こんな形で見るとは思っていなかった。それこそ僕に想像力が足りなかったということだろう。