人間の進歩

かなり前にこんなつぶやきをした(「百姓」の語源については昔読んだ中島らも氏のエッセイで知った)。

「百姓」とは百のなりわいを持つ人の意で、つまり昔は生活にはそれだけのスキルが必要だった。現代人の快適な生活は、動いている原理も知らない道具を与えられて使っているに過ぎず、そう考えると人間は個人レベルでは進化したのか退化したのかよく分からない。

これは日曜日に「鉄腕DASH」を見て、その後に「JIN-仁-」(最初のやつ)を見て思いついたことだ。

鉄腕DASHで見たのはDASH村のアキオさんだ。何度か見ているが、この方は上記で言うところの「百姓」として生きるすべを身に着けていて、衣食住-つまり「生活」-なんでもこなす。うちの実家も元は農家だったが、身内にもここまでのことができる人はいない。皆農作業については仕事として知識も経験もあるが、たとえばわらじを編んだりとかはできないだろう。

その後(21時から)「JIN-仁-」を見た。現代の脳外科医が幕末の江戸時代にタイムスリップして歴史に翻弄されながらも医師としての道をつらぬいていく物語である。非常に面白いドラマだ。
主人公の南方は現代の医学知識と高い技術を身に付けている。歴史を乱してしまうことの恐れを抱きつつも苦しんでいる患者を見過ごせず、当時は解明されていなかった疾病の治療法や外科的処置を彼らに施す。しかもそれも幕末の日本で手に入る限りの道具を使って行う。
たとえば、コレラによる脱水症状に苦しむ患者には水と砂糖と塩を配合してポカリのような飲料水を作って与えていた。

自分にあてはめてみると、絶望的になった。僕は一日の大半はPCの前で過ごしている。デザインも企画もディレクションも、PCがないとほとんど成り立たない(デジタルデータを作るのが仕事なので当たり前だが)。僕が幕末にタイムスリップしたら、「とりあえず薩摩藩にコネ作っとけ」みたいなことを言うだけの怪しげな山師にしかなれないでさびしい余生を送ることだろう。

アキオさんは過去の技術を継承し、南方は知識と技術で補っている違いはあるが、どちらも道具に依存していないという共通点がある。
僕は仕事でPCを使う。僕はPCの「使い方」は知っていて(用途は限定されるが)それをなりわいとしている。多少ではあるが技術と経験もある。
だがそれは高度な道具に過度に依存したものだ。

人間「社会」は確かに進歩した。が、人間は進歩したのか?
人間「社会」は強くなった。しかし人間は弱くなったのではないか。
技術で制御できないことが実はあったということを突きつけられた時、それが露呈したのが今の日本なのではないだろうか。

僕は技術の進歩を否定したいわけではない。「仁」でも、現代だったら直せるはずの病気で亡くなった人もいた。
だが利便性を享受するのであれば、それを制御し「従」とするのも人間の責任であるはずだろう。
今まさにそれを問われているのだ。