Google+についての雑感(本当に雑感)

以前浦沢直樹氏の『PLUTO』を読んでいておや、と思った点がある。
このマンガに出てくるロボットには新旧いくつかの世代が見て取れるが、世界最高水準を謳われているメインキャラのロボット7体は明確に感情がある。さらにアトムやイプシロンなどうち数体は身体的特徴が人間と酷似しており、顔の表情も作れる。それより前の世代(もしくは汎用ロボット)のロボットはアシモのようないわゆる機械の体で、感情についても感受性も表現もぎこちない。ただしレベルの違いはあれ、どのロボットもいわゆる人工知能を搭載し自立的に考えて動くことができる(メインキャラの一人であるゲジヒトは刑事ロボットだが、事件の「捜査」すらできる)。
そして彼らは旧型新型どの世代のロボットであっても、人間と同じ言語をあやつり、「会話」をすることができる。アトムとゲジヒトは話す。ゲジヒトと街の花売りロボットは話す。アトムと天馬博士も話す。
僕がおや、と思ったのは「ロボット同士の会話」の描写についてだ。明確にそれを意識したのはイプシロン(光子力ロボット)が空を飛びながら、遠隔にいるゲジヒトと会話をするシーンである。イプシロンもゲジヒトも「声」に出して会話をしていた。詳しい仕様は分からないが、遠隔通信自体はお互い機能として持っているようである。高性能ロボット同士の「会話」の意義はなんだろう、なぜそれをデータとしてやり取りしないのだろうかと思ったのだ。
しかしこれはすぐに結論が出た。「人間がそれを禁じた」のだろう。口述によらない通信とは言うなれば「テレパシー」である。自立的に考えて動けるロボットに、しかも人間と社会で共に生活するのに、そんな機能を持たせることは危険だと人間は考えたのだ(これは僕の勝手な推論です)。
人間の五感が受け取る刺激(情報)はすべてアナログである。耳は空気の振動を、目は光の波長を感知する。当然感知の際にノイズも混じるし、脳への変換処理も個人の能力ごとで一様ではない。会話とは脳内の情報(よく分からないのでものすごく適当な言い方であるが)をアナログの音声として相手に発し、相手に音声を感知させて脳が理解できる情報に変換させる手続きによって行われる。これはロボットの場合は、デジタル(思考)→アナログ(音声)→デジタル(思考)といういわば無駄な手順を踏んでいることになる。

「お申し込みは弊社のホームページにアクセスしていただき、申し込み用紙(pdf)を印刷してご記入の上ファックスでお送りください」

と言われた時なみの徒労感をゲジヒトもイプシロンも感じるだろう(読んだことないのだが、甲殻機動隊で上記のようなことを「人間とは不便だな」みたいに言っていたシーンがあるそうだ)。

長々と書いたが、最近、Google+を始めてみた。プロジェクトの解説にはこうあった。

目的は、実生活での人とのつながりと同じように、ウェブ上で他のユーザーとつながるようにすることです。

Google+では人とのつながりを「サークル」という公開範囲で規定する。このサークルの作り方は直感的で、一時的な追加や削除も可能である。関係の稀薄なある人のサークルに一時的に参加するとか、この人には聞かせたくないという話をする際に自分のサークルから外すとか、現実世界で我々が自然と行っていることが「操作」できる。ここでも行われているのは関係性という「あるものの状態」についてのデジタル化だ。Facebookの「いいね!」ボタンがそうだったように、ツールの進化がそれを促すのかどうかは今後のGoogleの動きにかかっているだろうが、僕は面白いと思った。
それで改めてPLUTOのことを思い出したのだった。

PLUTOは大変面白いマンガである。僕も何度も読み返した。
原作は鉄腕アトム「史上最大のロボット」であるが、浦沢直樹氏の作品らしくストーリーはミステリーの要素がふんだんに盛り込まれ、さらに作品を通じて「心とは何か」みたいな問いかけもなされている。

PLUTO (1) (ビッグコミックス)

PLUTO (1) (ビッグコミックス)