輪廻というシステム

死者の「魂」の存在を信じるか。
一般的には、それは存在するとされている(信じるかどうかの話ではなく)。お盆などの風習があるのはそのためだ。

火葬という行為で生命の依り代である肉体を復元不能な状態にしていながら、それでも魂の存在を信じる、それが人間の業というものなのだろうか。

先日の葬儀に当たって、本当に故人との別れを意識したのは、火葬の時だった。
本当に逝ってしまったということ、もう戻すことは絶対に不可能だということを、骨という形で目の前に突きつけられたからだ。

しかし骨になった死者も、生きている僕も、この世にいくばくかの(塵程度とはいえ)割合を占めて存在しているという点では同じなのかもしれない。死者は地球上から「無くなった」訳ではない。
(もちろん周囲の人の記憶としても残るが、話がずれるのでここではおく)

実際、僕であれ他の人であれ「生きている」ということは、ある条件が揃っている「状態」のようなものだ。

ぼくの体を構成する物質自体は自然界でありふれたものばかりだろう。それがある条件下で集まって「ヒト」という形を取ったので今僕はこうして生きている。

今はたまたま偶然が重なって「ヒト」の姿を取っている。こうして自律的に活動することもできる。
(もちろん「ヒトになる」ということは確率的にはすごいことなのだろう)

仮に僕が死んで火葬されたら、遺体の燃える部分については燃焼で大気の一部となり、炭となり、残った骨は遺骨として埋められることになる。こうして体を構成していた物質は自然に還ることになる(骨以外)。

もうヒトとしての活動はできないが、かつて「僕」であったものはそれぞれ違う姿でこの世には存在し続ける。うんと薄められてはいるが、そのうちのあるものは別の生命を造る材料にもなるのかもしれない。

そう考えると輪廻という考え方は地球の中の生命生成サイクルを指しているのだろうかと思えてくる。

いわゆる「生まれ変わり」みたいなものがあるのかどうかは僕には分からない。しかし大きな視点で見れば、生命サイクルの一部として形を変えながらも地球には存在し続けるということは確かだろう。ある物や人が現在の姿形を取っているのは決して永遠ではない。行く川の流れと同じだ。

ここまで身も蓋もないことを考え書いてきたが、それでも僕は死者の魂というものの存在を信じたい。
やっぱり人間は業が深いと思うのだ。