出来損ないだった兄より

正直何を書いたらいいのか分からない。書くことによって自分自身にどんな変化があるのかも分からない。前向きな気持ちになれるだろうかというとそうは思えないでいる。結局、悔いが残っていることをログに残すだけになるような気もする。だが、書く。今はそれしかできない。


11月13日火曜日、妹が静かに息を引き取った。

7月に癌であることが発覚し、4ヶ月の闘病の末の最期だった。
妹は僕より8つ下だった。来月末の誕生日で32歳になるはずだったが、その日を迎えることはついに無かった。4年前に他界した父の享年が62歳でその時も皆一様に「早すぎる」と悼んでくれたが、妹の生涯はさらに短かった。

僕たちは、長男の僕、3つ違いの長女、7つ違いの次女、そして他界した8つ違いの三女の4人兄妹だった。僕は19で進学のため家を出て、そのまま成り行きでずっと家族と離れて暮らしている。今では県外で過ごした時間の方が長くなってしまった。三女とは10年ぐらいしか一緒に暮らしていない(それを言ったら次女とだって11年しか暮らしていないのだが)。

僕たち兄妹は、狭い家で育った。
僕の父は集団就職で上京して関東にいたが、家庭の事情でUターンをすることになった。祖父は父に市内に小さな家を用意してくれた。
今で言えば2DKぐらいの広さの2階立てだったが、当時はまだ次女と三女は生まれる前で両親と僕と長女の四人家族だったので、別段不思議はなかった。初めてその家を見たとき、就学前の僕には荷物が運び入れられる前のがらんとしたその家は十分広く感じられた。

それから2年ぐらいして次女が産まれ、翌年に三女が産まれた。兄妹は4人に、家族は6人になった(何年後かに祖母が寝たきりになりうちで介護をしたので、最大7人がこの家で暮らした)。当時はそんなことは知らなかったが僕らはいわゆる団塊ジュニアの世代で、兄弟が多い家庭も今ほど珍しくはなかったが、それでも4人兄妹は珍しかった。
歳が離れていたとはいえ、頭の僕ですら小学生でまだまだ手がかかる時期だったので、両親は大変だったと思う。母が自転車の前と後ろに長女と次女を載せ、三女を背中におぶって保育園の送り迎えをしていた姿が今でも記憶に残っている。
母は県外の出身だった。知らない土地で子どもをたくさん抱え、まさに「奮闘」していた。そんな母を見て僕はできるだけ「いい子」でいたいと思っていた。そのせいか僕は幼い時から一人で本を読んだりするのが好きな子どもだった。だから構ってもらえず寂しいとか思ったことはなかった。何より当時は意識したことはなかったが、両親には十分に愛されていた。

それでも僕は、先に生まれた者の利得というべきなのかどうか分からないが、この家で唯一自分の部屋を持っていた。広さは2畳しかなかったが、それでも障子と板戸で仕切られた僕の空間だった。いつ頃からか僕はそこにこもるようになった。妹たちは仕切りのない部屋で三人で話したり勉強したりしていた(と思う。正直その辺はよく思い出せない)。妹たちには女同士の気安さも多分あっただろうと思う。僕は思春期の男子特有の女性全般に対する頑迷さが芽生えていた。だんだん妹たちとの会話は少なくなっていった。

僕は特に三女とは縁が薄かったかもしれない。歳が離れているせいか話が合わず、かといって小さな子どもを無条件に受け入れてやれるほど僕も大人にはなっておらず、よく喧嘩をした。喧嘩といっても8つも年上でしかも男では妹にとってそもそも相手になるはずもなく、それは喧嘩というより僕が大人げない振る舞いをしていただけだった。

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確か高3の時だったと思う。自由登校か何かで僕は平日に家にいた。昼間からゲームをやっていた。仕事に出ていた母から「妹が体調を悪くして早退するから学校に迎えに行ってやって」と電話があった。
僕は面倒臭いなと半分腹を立てながら学校に向かった。学校に着いたら職員室に通学鞄を背負った妹がいた。入ってきた僕を、妹は困惑したような、怯えたような目で見上げていた。僕は先生から妹を受け取り、無言で家に帰った。「大丈夫か?」と声をかけることも、手をつないで歩くこともせず、妹の数歩先を無言で歩いた。家に帰ってからも布団を敷いてやっただけで何かを話した記憶はない。まるでネグレクトの親のようだ。年上の兄が幼い妹にとっていい態度ではなかった。
その「妹に辛く当たった」という記憶と、妹の困惑したような表情はその後大人になってからもずっと僕の中に残った。自分でも悪い態度だったという自覚があったからだろう。なぜ兄のくせに幼い妹に優しい言葉の一つもかけてやれなかったのか。
僕は小さい頃から「女の子にはやさしくしなさい」と言われて育てられてきた。事実、そうしてきたつもりだった。たぶん「家の外」ではそうだった。

それを、一番身近にいた「女の子」にどうしてできなかったのか。理由も分からず兄に疎まれていると感じた妹の気持ちはどんなだっただろうか(実際、妹も僕を理解できないと次女に言っていた時期があったそうだ。今回それを初めて聞いたが、自分のしてきたことを思うと驚きは無かった)。

誰に語れるわけでもなく、それらのことはずっと僕の記憶に残った。

妹は3年前に結婚した。旦那さん(S君とする)と初めて会ったのは4年前に父が心臓発作で急逝し、葬儀参列のため実家に帰った時だった。「妹さんとお付き合いさせてもらっています」と言った彼の第一印象は「朴訥な男」であった。三月の終わりに生まれた僕の二週間後がS君の誕生日で、学年はひとつ下だが、年はほぼ変わらない。父の死に直面している最中だったので彼の申し出に驚きはしたが、悪い印象は持たなかった。後から聞いたが氏素性も申し分なく、母は「どうしてあんな人があの子(妹)と…」と喜び半分ながら不思議がっていた。
S君と妹は翌年の11月に結婚することになった。父が他界していたので、新婦の父の役を妹にお願いされた。
僕は、積年のことを謝罪するのはこの時しかないと思った。

11月になった。
S君と妹の結婚式場は中々予約の取れない地元でも有名な会場だった。山の中に大きな洋館と教会があり、1日1組がそこで式を行う。洋館自体を新郎新婦の自宅に見立ててそこにゲストを迎えて式を行うというスタイルで、館に一歩足を踏み入れると調度品や飾られている写真が新郎新婦にゆかりのある特別なものになっているという趣向を凝らしたものだった。

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この時期の天気は変わりやすく、家を出る前はそんなけぶりも見せなかったのに式場に向かう途中で面も上げられないほどの大雨になった。参列客を乗せたマイクロバスは土砂降りの中を式場に向かった。
式場に着いた。ほどなくバージンロードへ向かう控えの間で、僕は妹と対峙した。その瞬間まで何と言うべきか考えていたが、新婦入場の時間が来た。
「俺、いい兄貴じゃなかったな。ごめんな」
それだけしか言えなかった。

妹は笑っていた。僕が知っているあどけない子どもの笑顔ではなかった。確信と期待で満ち溢れた女性の微笑みだった。
僕は父の形見の腕時計をしてきた。きっと父がそうしたかったであろうというように腕を組み、二人でバージンロードを歩いた。そしてS君に妹を渡した。「よろしくお願いします」とだけようやく言った。
それからちょうど3年経つ。今月が二人の3回目の結婚記念日だった。
その間ずっとS君はいい夫だった。実際、彼が妹をどれだけ献身的に支えてくれたかはここには書ききれない。どれだけ感謝しても足りない。

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狭い家で僕は10数年を過ごした。
越して来た当時は広く感じられたその家も、自分の成長に伴い、友達を呼べない狭い家という不満を持つことも多くなった(後年、次女は自虐的に「あの家は地獄だった」と笑いながら話していた)。しかし2畳の部屋は、当時の僕の狭い世界のすべてだった。

その後僕は県外の大学に進学するため、実家を出て九州に移り住んだ。
そして4年後に大学を卒業し、広島の会社に勤めた。いろいろあって翌年に転勤になり東京に出た。
どんどん実家と家族から遠のいていった。
妹達は中学、高校と進学し、みなそれぞれ地元で大人になり、社会に出た。

その間に父は市を見下ろす山のふもとに家を立て、僕を除く家族は新しい家に引っ越した。
僕が育った狭い家は取り壊され、駐車場になった。

実家は庭付きの広い家になり、一人に一部屋が与えられた。(ずっと空き部屋のままだが)僕の部屋もあった。父は念願だった犬を飼った。犬は一番多い時で5匹いた。犬が苦手な僕は帰省するたびに犬が増えていくことに苦笑した。

僕が家を出て10年ぐらい経ち、妹が僕と同じ業界に就職したことを知った。
その報は長女から聞いたのだが、やっと接点ができた、とうれしく思ったのを覚えている。
その後は仕事面でのアドバイスをたまにしたり、少しずつだが話をするようになった。

妹は絵を描くのも、写真を撮るのも好きだった。手先も器用で、ものを作るのも好きだった。
父の遺影の横に架けられている肖像は、生前の父の写真を元に妹が油彩で描いたものだ。

僕は小さい頃から色々なものにとらわれていた人間だったが、そんな僕から見て、妹は自由な人だった。突然大きなアフロヘアにしてみたり、「石垣島で働きたい」と言い出してそのまましばらく住み込みで働きだしたりしていた。そういう報せを聞くたび、僕はいつも妹らしいなと思ったのだが、父はなかなか落ち着かない妹を心配していたようだった。最後には自分の勤めている会社に妹を入れていた。父の会社に入り、そしてS君と出会い、妹は落ち着いたように見えた。


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妹が癌であるということを知ったのは7月の半ば頃だった。妹はその前から腹痛を訴えていたそうだが、ある日耐え切れない程の痛みで仕事前に病院に行ったところ、腸閉塞を起こしていた。そして腸閉塞を引き起こしていたのが大腸癌によってであることが発覚した。
その知らせを母から電話で受けた。手術で大腸の一部を切除することになり、手術の日は僕も実家に帰ることにした。
母から知らせを受けた後、妹と電話で話した。何と声をかけていいか分からなかったが、家族がついていることと、今は手術を無事終えることだけを考えようと話した。
それからはメールを頻繁に送るようになった。病気のことは最初だけであまり触れず、子どもの近況などたわいもないことを書いて送った。妹も前向きに病気に向き合っていて、治療の経過を返信してくれた。障りになるといけないから、返信は気にしなくていいと伝えた。
S君には電話で、妹を支えてやってねと言った。S君は「ええ。愛のパワーで」と笑って言っていた。


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手術の日は、梅雨明けの快晴だった。
妹に会うのはちょうど一年ぶりだった。腸閉塞のため何日か点滴のみの絶食を続けていると聞いていたが、病室で明るく笑っていた。僕は「今大人気なんだよ」と駅で買ったくまモンのストラップと、前日に宗像大社で買った病気平癒のお守りを渡した。妹は「お守りのコレクションが増えた」と笑ってストラップを携帯に付けた。これから大手術をするという暗さは病室にいる誰からも感じられなかった。時間が来て妹がストレッチャーに乗せられ手術室に運ばれて行った。僕は大きく手を振った。

僕らは待った。母とS君は毎日の付き添いで疲れているようで仮眠をしていた。僕はときたまS君と話をしたり病院の周りの景色を撮影したりした。
数時間後、手術は無事終わった。
手術後、担当医から色々な話を聞いた。これから起こりうる様々な可能性についても聞かされた。腸閉塞の手術自体は成功したが、癌の転移は進んでいて、手術で取り去ることはできなかった。それからは抗がん剤治療をしながら様子を見るということになった。
僕は翌日から仕事だったので夜行バスで帰らなければならなかった。妹が麻酔から目覚める前に、僕は病院を後にした。
その時の僕は何も分かっていなかった。
これが元気な妹に会う最後になるということも。


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皆それぞれお互いの日常に戻った。
妹とはそれからも電話やメールで連絡を取り合った。
治療の経過などはあまり話さなかった(僕も聞きにくかった)が、退院して家が落ち着くとか、S君と出かけたこととか、日々のことを教えてくれた。
母やS君ともよくやり取りをした。実際、治療の経過の多くは二人から教えてもらっていた。
しかし実際は、前通りの日常に戻ったのは僕だけだった。母、長女、次女、S君は妹と共に闘病していた。メールを送って「何かした気に」なっていたのは僕だけだ。
僕は何も分かっていなかった。

抗がん剤治療が8月半ばからスタートすることになった。
妹は自分で病状のことを調べ、自分が深刻な状態であることを知っていた。その上で、「隠しておけないから」と仲のいい友だち10人ぐらいを家に呼び、自分が癌であることを報告した。
妹の仲間たちは父の生前から家族のようにうちに集まっていた。僕の両親のことを「おとう、おかあ」と呼んでいる子もいて、生前の父は何よりそういったことが嬉しかったようだった。

妹の言葉に皆ショックを受けていたそうだが、「必ず治す」という妹の意志を知り、支えになると快く言ってくれた。
葬儀の時に見たが、家には千羽鶴が3本、多くの寄せ書き、アルバムがあった。どれも各々の言葉とやり方で妹の回復を願っていた。
先が見えないのは皆同じだったが、それでも仲間たちはあるべき未来を見ていた。

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僕は連日メールを送り続けた。ほとんどが自分の子どもの写真と近況だった。いろいろあって、妹の結婚式以来子どもを実家に連れて帰っていなかった。あれから小学生になり、成長した子どもの姿を見せたかった。
ある日、妹から「パケット代が前の3倍になってしまって、治療に関係したメールも受けないといけないから、写真入りのメールはちょっと控えてほしい」とお願いされた。
なるほどと思い、それからはテキストのみのメールを送ることにした。
母とはときたま電話で話した。見た目はあんなに元気そうなのに、ごはんも美味しい美味しいと言って食べているのに…と電話口で涙ぐんでいることもあった。僕はうなずくことしかできなかった。

この間も妹は治療のため入退院を繰り返していた。
病院で一人でいると寂しいので、母やS君たちが病室に来ると喜んだそうだ。
僕はメールでしか妹の状態を知らなかったが、今回葬儀の合間に闘病中のいろいろな話を聞いた。妹は前向きでいようとはしていても、大きな不安も抱えていた。仕事でそばについてやれない母に怒りをぶつけたこともあったそうだ。
僕は何も見えていなかった。妹の葛藤も、それを傍らで見ていた家族の苦衷も。


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10月末になった。
母から、担当医から母とS君に話があるので明日病院に来てほしいと連絡があったとメールがきた。
母は不安がっていた。話をきくのがこわいと書いていた。僕もだった。とにかく明日を待つしかないので今は考えすぎないようにしようと返信した。

翌日、母に電話をした。母は、最初は淡々と話した。
抗がん剤は根本的な治療にはなっていなかったこと、腹水が溜まってきていること。さらに、これからもっと強い抗がん剤を続けるのか、残された時間を旅行などをして家族と過ごすのかを、家族で話し合って決めて欲しいと言われたことを僕に伝えた。
答えは出なかった。出せるはずもなかった。S君は「絶対治りますけぇ」と地元の言葉で母に言った。僕もそれを信じた。信じたかったし、信じることしかできなかった。

それからも、妹には連絡を続けた。返信はだんだん少なくなった。
母とはよく電話で話した。いつも、可哀想でならないと涙ぐんでいた。母は妹の前では絶対に泣かないと決めていたそうだが、それでも病院に行くのが辛いと、この気持ちをなんとかしてほしいと言っていた。だめな母親だと言っていた。妹はずっと昔に成人している。他家に嫁いでもいる。でも、それでも自分の子どもだ。自分の子どもを守れないと知った時の母の胸の内はいかばかりだっただろうか。それはきっと絶望という言葉でも足りなかっただろう。自分の子どもが病気で苦しんでいて心を傷めない親はいない。母はそれすら表に出せずにいたのに、僕は一人になるとよく涙を流していた。路上でも、家のベランダでも、隠す必要のない遠くの場所で、憚ることなく滂沱の涙を流していた。

僕は前にこのブログでこんなエントリを上げた。その中でこう書いた。


若い頃、自分は親孝行らしいことを何もしていないなと思っていたが、親孝行とは決して「何かをしてあげること」ではなかったんだということを父の葬儀の時に思った。そして自分に子どもができてから、子どもにとって最大の親不孝とは「幸せにならないこと」であると思うに至った。

なんと傲慢で浅はかだったんだろうか。世の中には幸せになりたくて、その資格もあって、それでもそれが叶わない人もいるのだということが分からなかったのか。母が、妹は親不孝な子だと思うとでも言うのか。

僕は、人生は残酷だとか、僕を連れて行けばいいのにとか、なんの役にも立たないことを考えていた。
全部放り出して今すぐ帰りたいと思うこともあった。
僕は何も分かっていなかった。この間にも家族は妹を病室で、家庭で支えていた。
薬の副作用で少しずつ記憶が曖昧になり、一人を寂しがる妹に交代で寄り添っていた。
妹は身の回りのことも不自由になり、S君と暮らしていた実家の近所のアパートから実家に移っていた。足のむくみで階段の上り下りが困難になった妹のために、階段にも風呂にも手摺が付けられていた。僕はそんなことすら知らなかった。何も分かっていなかった。


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11月になった。
金曜日に母から、妹がまだ元気なうちに一度帰ってこられないかと連絡があった。
母としてはその言葉を言うだけでも相当に辛いものがあっただろう。僕は、その申し出を聞いたのが急だったので、来週帰ると答えた。

その週の日曜日は子どもの七五三をやった。綺麗に着飾った子どもの写真を送ろうかと思ったが、迷惑になるといけないと思ったのでテキストだけ送った。


“今日は、七五三に来てます。大きくなったものだ。。”

これが、妹に送った最後のメールになった。返信は無かった。その時は


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週が開けた。
職場の人に、現在の妹の病状と今週末に帰るということを伝えた。
今はとにかく信じましょう、できることがあったら何でも言ってくださいと応じてくれた。

火曜日の朝、いつものように職場に行くと、母から電話があった。
昨日の夜から40度以上の高熱が出ている。今は意識不明で、医師が「どうなるか分からない状態だ」と言っていると伝えられた。一応それを伝えておくと言って母は電話を切った。
なすすべもなく、僕はとりあえず仕事に戻った。
正午前に、また母から電話があった。母は、今から帰ってこられないかと聞いてきた。
電話の後ろでは、妹の名を呼ぶ長女と次女の声が聞こえていた。
僕は分かったと答え、職場の人に事情を説明した。構わないからすぐ帰ってくださいと言われ、取るものも取りあえず、そのまま新幹線に乗った。

実家までは新幹線と特急を乗り継いで4時間程度かかる。何度も母から「今はどの辺りか」「何時頃着きそうか」と電話があった。その度に電話の後ろで家族が妹の名前を呼ぶ声が聞こえた。
途中、雨が振り出した。涙雨か…とひどくくだらないことを思った。
時間と距離を持て余し、どうしてこうなってしまったんだろう、などとぼんやりと考えた。悪いことに、たまたま前日にTwitterでつぶやいたことがRT3桁を超えていて、ひっきりなしに携帯が鳴った。僕らが関知しないどこかで、それでも世界は動いていた。それがひどく腹立たしく思えた。

駅についたのは17時過ぎで、すっかり日は暮れていた。雨は止んでいた。駅まで従兄弟が迎えに来てくれた。母も僕らも妹の病状の詳しいことは親戚にも伝えていなかったので、驚いたと言っていた。血が止まらず可哀想だと従兄弟は言っていた。何のことか分からなかった。

病室に入った。母、長女、次女、S君、叔母がいた。
枕元で皆が妹の名前を読んでいた。お兄ちゃんが来たよ、と誰かが言った。
枕元に行き妹の顔を見た。愕然とした。
「闘病」の軌跡が見て取れた。
そうだった。妹はずっと闘っていたのだ。
僕は何も分かっていなかった。

遅くなってごめんなと妹の頭を撫でながら言った。
呼吸は浅く、短かった。呼吸器を軽く当てられていたため口角が上がり、まるで笑っているような顔に見えた。
聞こえていますから、声を掛けてあげてくださいと看護師さんに言われた。僕も妹の名前を呼んだ。
手を握った。スポーツ好きで健康的だった器用な手は、限界まで細くなっていた。
僕は何も分かっていなかったのだ。
それでも何かしたいと思い、携帯に保存してある子どもの学習発表会の動画を大音量で流した。
幼い頃、兄妹4人で撮った写真を顔の前にかざした。

僕らは何時間もそうして妹の名前を呼び続けた。
何度も呼吸が浅くなり、その度に僕らは蒼ざめた。呼吸が戻る度にS君はありがとう、ありがとうと言った。
何度か妹のお腹が鳴った。次女はその度に「私のお腹が鳴ると笑うのに」と言った。
長女は「退院したらNBA観に行こう、犬も二匹飼うからね」と言っていた。
母は時折カーテンの向こうに消えた。そっと泣いていた。
S君は妹に「好きだよ」と言った。そして「いつもは言ってくれるのに、どうして今日は答えてくれないの」と訥々と言った。

遣る瀬なかった。どうしようもなかった。「皆がいる前で言えるかよ。起きて二人きりになってから言うんだよ。なあ」と妹に向かって大声で言った。そうしないと泣いてしまいそうだった。

S君と僕は何度か煙草を吸いに席を外した。僕はS君に妹の今の状態は「苦しんでいる」のだろうかと訊いてみた。S君は「もう自分が病気であることもあまりよく分かっていないと思う」と言った。S君は訥々と話した。激昂するでもなく、絶望するでもなく。
こうやってずっと妹をそばで見てきたのだ。希望を捨てずに。胸の内は誰より複雑だっただろう。

20時を過ぎ、叔母と従兄弟が帰った。二人は僕がいない間もずっと病室についていてくれていた。
病室は家族だけになった。
誰も、これから妹がどうなるか分からなかった。正直、もう医学的なことはどうでもよかった。ただ一分でも一秒でも長く生きてほしいという思いだけで、妹の名を呼び続けた。

21時を過ぎた。当直の看護師さんに替わり、妹の顔を綺麗に拭いてくれた。口の中も出血していたのを吸引してくれた。熱は39度まで下がっていた。
熱が少し下がり、血圧がやや上がったので僕らは安堵した。
また僕らは妹の名前を呼んだ。

心電図の波形のパターンが突然変わった。それまで規則正しく波打っていたものが大きく乱れた。看護師さんは当直の医師を呼びに行った。
皆枕元に集まり、妹の名前を呼んだ。頬を叩いたり、肩を揺さぶった。寝ちゃだめだよ。起きて。という声が病室に響いた。
心電図の波形が直線になった。

皆名前を呼び続けた。
僕も叫んでいた。我を忘れていた。まだ言いたいことたくさんあるんだろ?こんなんでいいのかよ!いいわけないだろ!
それは、自分自身に言った言葉だったのかもしれない。

僕らは30分ぐらいそうしていた。皆「何か」が起きるのを待っていた。
だが何も起きなかった。妹はいってしまった。僕は最後はごめんよと何度もうわごとのように言った。

何がきっかけだったのかは分からない。皆、おずおずと枕元から離れた。
医師が妹を診て、死亡時刻を宣告した。

僕らはうつむいていた。
しばらくして、母は「お世話になりました。夜中に大きな声を出してすいませんと」看護師さんに丁寧に頭を下げた。

看護師さんは「大変だったけど、最後は家族にこんなに温かく見守られて…」と嗚咽を漏らしていた。

僕には「妹さんはお兄さんが来るのを頑張って待ってたんですよ」と言った。「間に合って良かったですね」とも。
僕は、ありがとうございましたと言った。
やはり僕は何も分かっていなかった。


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退院するため、体を綺麗に拭いて着替えをすることになった。妹は「これを来て退院する」と言って、お気に入りのワンピースを病室に持って来ていた。長女と次女がお化粧をすることになった。「綺麗にしてあげようね」と長女が言った。次女は普段化粧をしないが、妹に習ったと言っていた。
僕らはおぼつかない手で病室の荷物をまとめた。妹の着替えは時間がかかりそうだった。急がなくていいよ、もう時間はいっぱいあるんだし、ゆっくりやろう。僕はS君にそう言った。
僕は誰に向かってそう言ったのだろう。

喫煙所でS君と会った。
僕はS君に何度もお礼を言った。妹は君と結婚できてよかったと伝えた。S君は「いや、もっとできることがあったのかもしれません」と言った。
そして「なんででしょう、まだ泣けないんですよね…」と言った。

さっき帰った従兄弟がまた戻って来てくれた。僕は片付けて妹を迎える準備をするためために従兄弟と家に帰った。
そう聞いてはいただ、家はひどく散らかっていた。
皆、昼間はそれぞれの仕事、夜は交替で妹の付き添いをしていた。誰もが自分の事は後回しだった。
僕はそんなことも分からなかった。

手早く部屋の片付けを済ませた。23時を過ぎて葬儀社の車が来た。

妹は、驚くほど綺麗だった。お洒落なグリーンのワンピースとジャケットを着ていた。病室で見た疲れ切った顔は、長女と次女の化粧で生前のそれに戻っていた。本当に、今にも寝言のひとつもつぶやきそうな安らかな寝顔だった。
ただ一つ、胸の前で固く握り合わされた両手だけが違っていた。
僕は手を合わせ、ゆっくり休めよとつぶやいた。


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翌日から、葬儀に向けての準備になった。
僕は職場に電話を入れ、今週は戻れないと思いますと伝えた。こっちのことは気にしなくていいから、あなたも体に気をつけてくださいと言われた。今の僕の立場からすると、破格の厚遇をしてもらった。

S君は喪主として母といそがしく動いた。弔問客もたくさん訪れた。妹の仲間や友達は長女と次女とも仲がいい人が多かったので、ひとしきり枕元で別れを済ませた後は、アルバムを見て妹の話をしていた。友達や、妹を小さい頃から可愛がってくれた人たちの涙を見るのは辛かった。

翌々日に妹を納棺した。お気に入りの服から、白装束に着替えた。着替えはおくりびとの人たちがしてくれた。着替え自体は上手に隠してくれていたが、S君の「きっと着替えているところを見られたくはないだろうから」という意向で、S君、母、長女と次女を残して、後の人たちは部屋を出た。
着替えがおわり、部屋に呼ばれた。上品な薄いピンクの棺に妹は横たわっていた。ガーゼが外された顔は、本当に生前と同じになった。
妹は笑っていた。その顔はまだ若く、綺麗だった。触れた時の頬の冷たさだけが、妹がもうそこにいないことを伝えていた。
葬儀は、何度も遺族に死者に語りかける場を設けている。僕はその都度「ごめんよ」か「ゆっくり休めよ」と言っていた。
ただ一度、出棺の献花を纏った姿には、「綺麗だよ」と言わずにおれなかった。

通夜の夜になった。
棺の前に家族が集まった。
S君が、これ…といってバインダーを長女と次女に差し出した。妹が病院でつけていたノートだった。毎日の食事や治療の記録の中に、家族への思いを綴った手紙を見つけたそうだ。二人はそれを読んだ。二人は笑っていた。寂しさを含んだ笑顔だった。二人は少しだけ泣いた。僕も読んだ。S君、長女、次女、母に対する感謝が妹らしい文体で綴られていた。寒い夜だったが、少しだけ温かくなった。

通夜、葬儀には多くの人が訪れてくれた。皆、妹の早すぎる(そして急すぎる)死を悼んでくれた。職場の人も遠くから葬儀に駆けつけてくれた。妹を知る僕の友だちも来てくれた。子どもの頃の妹を知っている幼馴染みもいた。十数年ぶりの再会だった。

妹を荼毘に付す際、喪主としてS君が火葬のスイッチを押すことになった。僕らは控えの間からそれを見ていた。
僕の前に立っていた母が僕を振り返り「嫌なものだね」と言った。
僕も父を荼毘に付した日のことを思い出していた。あの時は僕がスイッチを押した。「お父さんの時もこうだったね」と母は言った。
妹の遺骨は、S君の家とうちでの分骨となった。

こうして一週間が過ぎた。悲しく、慌しく。

僕は葬儀の間もたいして役に立たなかった。家内と子どもは土曜に帰ったが、それでも少しでもできることがあればと僕は日曜日まで残った。手伝ってくれた親戚を送り出した後、僕らは静かに部屋にいた。
結局僕は最後まで中途半端だった。息子として、兄として、夫として、父として、組織人として、どの顔でも責任を全うできなかった。


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日曜の夕方の新幹線に乗り、家路についた。家に着くと、S君にメールした。


お疲れ様です。さっき家に着きました。

疲れはでていないですか?今晩はゆっくり休めそうですか?

帰る途中も、また涙が出ました。

みんなと一緒にそばに着いててやれなかったのに、なんと勝手なことだろうなと思います。

元気を出して、とはとても言えないので、今は少しでも悲しみをやり過ごしましょう。

ひとまずゆっくり休んでください。

僕はそのまま眠ってしまった。
深夜に、S君から返信があった。


(略)

写真は●●ちゃんが最後に返信しようとしてたものです。ケータイの使い方も分からないくらいになってた時期のものです。カチャカチャ触ってる姿は見てて辛いものがありましたが、理解しようと頑張ってる姿がいとおしくも思えました。お兄ちゃんのメールについてはあれこれ言ったりもしてましたが、内心は楽しみだったと思います。(^^)

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添付されていた写真を見た。携帯メールの送信フォルダを撮影したものだ。
一番新しいメールは「おにいちゃん」という宛先になっていた。


メール作成日は僕が最後にメールを送った、子どもの七五三の日のものだった。
そしてそのメールには未送信のアイコンが付いていた。

僕は、最後のメールに返信はこなかったと思っていた。
でも違った。妹は、僕になんとか返信を送ろうとしていたのだ。
僕はまた泣いた。なぜあの日に会いに行かなかったのか。もう一度会わなかったのか。
後悔と無力感といじらしさ。言葉にすればそんなものがないまぜになった涙だった。さみしくて、無力だったが、温かい気持ちにもなった。
しばらくはこうやって妹の思い出があちこちから現れて、寂しくも温かい気持ちになるのだろう。
S君にありがとうと返信した。


僕は身支度を済ませると、職場に向かった。
耳を済ますと、遠くで車が走る音、工事の音、猫の鳴き声が聞こえてきた。世界は音に満ちていた。音は生者の営みであり、「日常」そのものだった。日常が、また僕らの目の前にあった。先週より欠けた日常が。


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そろそろ筆を置こうと思う。
長々と書いた。だがまだ書き足りない気がする。多分何を付け加えてもそう思うのだろう。
僕はまだ悔恨の中にいる。思い出す妹の顔は、大人になってからの笑顔もあるが、優しくしてやれなかった子ども時代のものも混じっている。
枕元でごめんよとつぶやいていた自分のことも思い出す。
最後まで出来損ないの兄だった。


ごめんよ。
今はまだ無理だけど、いつか、ひまわりのようだと言われた君の笑顔だけを思い出せるようにするよ。


妹が病気になってから、悲しくて悲しくてどうしようもない時に決まって聞く歌があった。
その歌の中に、こんな歌詞がある。


「またいつか ここで逢おうよ 同じ笑顔で」
UA「プライベート サーファー」〜

また会おう。僕もいつか行く。
そうしたら、あの狭い家でまた会おう。
今度はちゃんと笑顔で話そう。知らなかったお互いのことをたくさん話そう。
それまで父さんと待っていてくれ。


末筆ながら、妹を最後まで支えてくれた皆さん、通夜・葬儀に足を運んでくれた皆さん、遠くから祈りを捧げてくれた皆さんに、心から感謝の意をを表します。
ありがとうございました。



妹よ。どうか安らかに。

出来損ないの兄より