みんな、誰かの子どもだった

日が変わり、2月19日になった。
父の5回目の命日だ。

毎年のことだが、仕事が終わって家に帰ってから、父が好きだったお酒を飲みながら霊界通信で父と話をする。
一年どんなだったとか、子どもの写真を見せたりとか。
「今年もあんまりパッとしない一年だったよ」と言うと、しょうがないな…という顔で父は笑う。生前は謝ったことはなかったが、他界した後は父に謝ってばかりだ。
今年は…どうだろう。
もう父は一人じゃないんだ。


これは妹が1歳、父が36ぐらいの頃だと思う。

妹の死を、なぜこんなに悲しいと思うのだろうと考えてみたことがあった。
答えはすぐに出た。それは僕が親になったからだ。

1歳の時、3歳の時、6歳の時…だんだんと写真や記憶の中で大きくなる妹、それが自分の子どもの成長とだぶるのだ。
そしてそれは当然のように、「もし自分が子どもを失ったら」という恐ろしい仮定に行き着いてしまう。僕は、兄の視点と、兄である僕をさらに上から見下ろす親の視点で病気の妹を見ていた。
だから、僕の悲しみは母が感じていたそれにも近かったのかもしれない。
親にとっては、30だろうと40であろうと子どもは子どもだ。みんな、誰かの子どもだったんだ。

僕は曾祖父のことを殆ど何も知らない。僕の父にとっては祖父であるから、父は曾祖父のことをもちろん話に聞いたこともあるだろう。
しかし一世代経た僕は何も知らない。
そう考えると、ある人がこの世にいたことを語り継がれる期間というのは、意外と短いものなんだなと思う。
しかし、個人の命は途切れても、受け継がれていくものがある。

僕の子どもが2歳になる数日前に父は他界した(葬儀の日は2歳の誕生日だった)。だから子どもは父のことをほとんど覚えていない。
だが、子どものその存在自体が、父から僕へ受け継いだ命であり遺志だ。
僕の存在は僕の曾祖父やそれ以前の人たちの遺志だ。
みんな、誰かの子どもだった。

この歳になると、「さよなら」が本当に今生の別れの言葉になってしまうことがある(父とも妹ともそうだった)。
それは歳を重ねるごとに、より現実的になっていく。
しかし現実は途切れても、続くものがある。残るものもある。
託す遺志を持ち続けられるか。それが日々を「生きる」ということなのかもしれない。
このブログの副題にもしているが、「人生とは、生活のことなのだ」

〜父さん、こんなところでいいかな?〜