3Gと怒り

(少し昔のこと)仕事で詰まってしまい、会社を23時にでた。
駅についてみると、運が悪いことに電車も通常運行をしておらず、鈍行に乗る。
家に帰るのは少し遅くなりそうだな、などと思いつつ、本を読むことにした。
奥田英朗、「邪魔」の上巻。うかつにもあと十数ページで読み終わるのに下巻を持ってくるのを忘れていた。すぐに読み終えてしまい、困ったのでとりあえず新聞を開いた。

オバマ勝利の記事を読みながら、気がつくとうとうとしていた。
うとうとの中でなにかが引っかかり顔を上げると、向かいの席にケータイで話している人がいる。40がらみでのこわもてで、いかにもやり手そうに顔が光っていた。呑んでいるようだ。
その人はケータイでなにやら怒っていた。しかし一応周りを気にしているようで、時折鋭い言葉が出てくる他は、小声と言っていい音量で話していた。

なんだ、と思ってまた新聞に目を落としたのだが、どうやら脳が眠りに戻りたがっているようで、またすぐうとうととしてしまった。

意識の中央に、いくつかのやっかいごと達の雑多なイメージ あるものは顔だったり、あるものは筆で書いた文字だったり が現われた。それらは各々はっきりした核を持っていて形を変えながら浮遊していた。その周辺がしだいにぼやけて絵の具を混ぜるように溶け合い、やがてひとつの塊になった。

気分が悪くなり頭を掻くと、向かいの席の人はまだケータイに怒っていた。
社内は割と込んでいたのだが、その人の前に皆立ちたくないようで、そこだけがマンガの虫歯みたいに空いている。なのでなんとなく差し向かいで怒られているようでこっちも嫌な感じだ。
まださっきの相手に怒っているみたいだが、鋭い言葉の数の頻度はかなり増えてきていた。
顔を合わせたくなかったので下を向いていたらまたうとうとした。

大声が聴こえた。
はっと顔を上げると、前の人がケータイに怒鳴り散らしていて、「ふざけんじゃねえ!」「なんで遅れんだ!」などという言葉がガトゴトという電車の音に混じって車内に鳴り響いていた。
あきらかにそそくさと周囲から 隣に座っている人も含めてだ 人がいなくなった。僕は起きぬけでタイミングを逃し、完全にその人と対峙する形になった。

だが、その人は周りがまったく目に入っていない様子だ。なおも怒鳴り続けていた。
そのとき。

よっぽど腹に据えかねたのだろうか。
おもむろに顔の前でケータイをげんこつでゴンゴンゴンゴンとこづき始めた。
僕はあっけに取られて見入ってしまった。さっきまでの気まずさはどこへやらである。多分口が開いていただろう。

ひとしきり気の毒なケータイを痛めつけ多少気が晴れたのか、今度はケータイをトランシーバーのように口の前に持ってきた。そして、

「どうだ、コラァ」

とすごんだ。
いや、どうだもないだろう。
通話相手もそう思ったようだった。

「あんだと?」

おそらく「痛くもかゆくもねえよ」とでも言われているんだろう。彼(彼女)が正しい

「当たり前ぇだ、んなこと」

おお、そうだ、そうだよ。
僕は正直、これを聞いて少しほっとした。自分のしていることはわかっているようなのだ。だが、違った。

「こっちはまだ本気出してねえんだからな!」

そっちかよ!

哀れなケータイの末路を思った。しばらくすると僕はまた眠ってしまった。
次に目を覚ましたとき、前の席には誰もいなかった。
どこまでが本当のことだったのか実は、よくわからない。