母の日に

まだ子どもが「赤ちゃん」だったころに、実家に里帰りをした。
しばらく滞在した後、帰りの飛行機に乗るために空港まで母が送ってくれた。

車を降りてから搭乗者待合室のゲートの前まで、母が子どもを抱っこしていた。
子どもは母にとっては初孫である。
里帰り中の僕らの世話であまり子どもと過ごせなかったのか、母はいつまでも子どもを離そうとしなかった。
そしてしきりと「おばあちゃんちの子どもになって」など冗談めかして言っていた。
僕が苦笑して、「大変だよ?」と言ったら、母は毅然と「そんなこと知ってるよ」と言った。

そうだった。母は僕を含め、僕ら4人の兄妹を育てたのだ。
分かってないのは僕の方だった。

母は以前、自分はよく「育児のベテラン」などと言われるが、子どもは一人ひとり違うので、ベテランなどと言われてもピンとこないと言っていた。
これも母の本心だろう。

写真は、6歳の子どもと、60代の母の手だ。
お互いにとって、それぞれ行く道と、来た道。その人生が交差した瞬間である。

子どもの手は、まだふっくらとしている。
母の手は、多くの皺が刻まれている。
この皺は、人生で何かを成し遂げるたびに刻まれていったものなのだろう。

でもきっと母は言うだろう。
「わたしはまだ何も成し遂げてなんかいない」と。

こうやってずっと親というものは、(もう「子ども」ではなくなった)自分の子どもの行く末を案じて生きていくのだろう。
僕の手にも、いつか皺が多く刻まれるはずだ。
僕も母のように生きたいものだ。

お母さん、いつもありがとう。
これからも元気でいてください。