命名と参照

ずいぶん前の話になるのだが、ある会社の製品カタログ改修を依頼された。
カタログといってもA4見開き両面で、さほどページ数のあるものではない。

原稿として現在のカタログとその他の印刷物を何枚か渡された。原稿はサイズもカラーもいろいろだった。
レイアウト作業自体は実際に製作に入ってしまえばさほど難解なものではなかったが、掲載する製品数も、製品分けのカテゴリも多く、さらに色々な印刷物の寄せ集めなので原稿の抽出が複雑だった。
現在のカタログのこの部分は表面のここに持ってきて、こっちの印刷物からこの製品とこの製品を持ってきてこういうカテゴリのブロックを作ってそれをこのように並べて、ブロック内での製品の並べ方は現在はこうだけど今回は…という説明をお客さんから差向いでしてもらった。
たぶん1時間くらい聞いていただろう。

製作にとりかかることになった。
初校提出まで時間がなく、自社で作業ができなかったので、懇意にしているフリーの外注さんに頼むことにした。
依頼したところ快く引き受けてくれて、すぐに原稿をpdf化して送り、説明をすることになった。「電話」で。

これが困難を極めた。
差し向かいでお客さんから話を聞いている時は良かった。
何枚原稿があっても、それらをどのように重ねていても、必要なものを一番前に出して指で指し示し、「この原稿」と言えばお互いがそれを目で追い、内容を確認し、次に進むことができたからだ。

しかし電話の場合、「これ」という言葉の精度は極端に低くなる。
今回は原稿の枚数も多く、サイズもカラーも色々だった。例えば僕がA3の両面印刷の裏面を見ていても、向こうで見ている原稿はpdfなのでサイズでの区別もできないし、表裏という概念もない。
僕が机で重ねている原稿と同じ状態でもない。
当たり前のことだが、お互いが現在同じものを見ている、という前提があって、初めて話がスタートする。その「前提」を確証するまでが困難だった。

「そこはA3の表面の右側のブロックが入ります。…A3はさっき見てたやつですよ。いやそれではなくて、その前に見てたやつ。そうそう背景に空が入ってる方。それを上に置きます。…いや上というのは鉛直にという意味ではないです…。鉛直?…つまり地面から空に向かっての上という意味ではなくて…いや違います、紙面に入っている背景写真の空のことではなく、現実世界での地面と空のことを言っていました。…いや、確かに室内にいるから空は見えないでしょうけど……そうですそうです!紙面の上部のことです。」

こんな会話を延々と繰り返していた。
これではいかんと思い、一旦落ち着くことにした。それで、とりあえずたくさんある原稿のそれぞれに「名前」をつけることにした(最初からやれ)。それからは話が比較的スムーズに進んだ。名前をつけることによって、お互いに「参照」が可能になったからだ。

これと同じようなことが、子どもと接しているとよくある。
子どもに少し複雑なことを教えてみて、それを理解ができていないと感じた時、大抵問題は僕の方にある。
言葉の定義や命名があいまいで、参照がうまくできないのだ。
ある程度の年齢までは、自分が言った言葉を子どもがどのように頭にいれたかは、なんとなく分かる。会話を振り返ってみると、「あそこで話したあの言葉の名前が紛らわしかったので、これを尋ねた時に混同したんだろう」のような推測を立てることができる。
論理的な思考をする前の子どもは、「覚えること」と「覚えたことを思い出すこと」で学習していく。この「思い出すこと」は参照である。
覚えることのために重要なのは「命名」だ。「これ」「それ」はクリップボードのようなもので、ひとつ使えば前のは削除されると思っていたほうがいい。

説明が上手い人は、相手がどこまで理解できているかを把握できている。相手が自分がいったどの言葉をどう参照しているかが分かっている。だから次に進める。
命名のやり方、「似たもの同士」の区別(カテゴライズ)の仕方、覚えたものを取り出す方法。意識していてもいなくても、これができるのだ。

映画「フィラデルフィア」で弁護士役のデンゼル・ワシントン

「私を三歳の子どもだと思って、説明してください」

というセリフを言っていた。
これがいかに困難なことかは、自分に子どもができて初めて分かったのだ。