少年とプール

小学生の頃、泳ぎが少し上手だったので学校の強化選手に選ばれた。
選手は夏休み明けに行われる市の大会に出場するため、夏休みは毎日プールで練習をした。
一日どのくらい泳いでいたかもう覚えてないが、来る日も来る日も泳いだ。
バタ足だけで50mを●セット、手だけで50mを●セット、クロールで100mを●セット、みたいな感じでもくもくと泳ぎ続けた。
夏休みだったが、青い空の下を泳いだ記憶はあまりない。夕日が映った暗い水面のイメージしかない。
苦しかったし疲れたが、なんでこんなことやってるんだろうみたいなことは思わなかった。できる力があって、命じられたからやる、それ以上のことは考えたことはなかった。
タイム削減に血道をあげていたわけでもないので、力がついていたのかどうかもあまりよく分からなかった。
ただ、選手たちとのあいだに「夏休みを棒に振って練習してる俺たちって…」といった奇妙な連帯感は感じた。

一ヶ月ぐらい練習を続け、大会の日になった。
僕は個人では自由形100m、あとメドレーリレー(クロール)に出ることになっていた。

市のプールはいつもの25mプールとは違い、競技用の50mプールだ。水は冷たく、深かった。
飛び込むまではやたら緊張していた。今思うと晴れ舞台というほどのものでもないし、別に上位に食い込むほどの選手でもなかった(他校の選手のレベルなど知る由もなかった)。
この一ヶ月のことを思うと、何かはしなければいけないという自負は子どもながらに感じていた。その思考は稚拙だったが。「もうすぐ僕の番が来る。そしたら飛び込んで一生懸命泳がないといけない。何故?選手だから。とにかくそうしないといけない。」

僕の番になった。
一度(他の選手の)フライングで戻されて、二度目のスタートで飛び込んだ。
飛び込んでしまったら、もう僕は「人間以外」の何か―例えるなら抜き手とバタ足と肺だけの存在―だった。ただプールの青と自分の発する泡の白しか目に入らなかった。小学生のレースに戦略も駆け引きもなかった。ただ反復練習で身体が覚えている動きを全力で続けた。
いつもと違う大人用の深いプールの中で、僕の時間は限りなく圧縮されていた。普段の、テレビの前でだらっと過ごす数分と同じ数分が、無限の青い壁になって視界に広がっていた。
僕は泳ぎは得意だったが、「水が怖いものだ」ということは知っていた。そこは本来音の届かない世界であり、息をするものたちを拒絶する場所だった。深いプールは圧倒的な水量で僕を威圧し、子どものか細い全力を嘲笑うかのように、水中は暗く静かだった。聴こえるのは自分が水を切り裂く音だけだった。自分にのみ聴こえる轟音を撒き散らしながら僕は進んだ。
それはいつかレースが終わるなんて想像もつかないほどの遠さだった。それでも理性や感情と切り離された場所で手足は動き続けた。
気がついたら目の前にゴールがあった。1mmでもいいから手が長くなれ、と最後の本能で必死になってタッチした。
そしてようやく日常(水面上)に顔を出した。辺りを見回したが何位だったのかも分からず、とりあえずそそくさと上がった。感慨に浸る間もなく、次のレースのためそこを退いた。
レースは終わった。

僕は、夏になるとこの100m自由形で体験した数分のことを思い出す。
人の一生もこんなものかもしれないと思う。深い水の中、頭は真っ白で独りで無我夢中で手足を動かし続けて気がつくとあっという間にゴールだ。
特に歳を取ってからはその思いが強くなった。

100mの順位は覚えていない。予選突破もできなかった。
でもこの数分間は僕の心に色々なことを刻んでくれた。一ヶ月と数分は無駄な時間ではなかった。今でもはっきりそう思っている。