3月11日

震災が起こった時、被災地の同じ町に住みながら、ある人は亡くなり、ある人は助かった。

同じ日本に生きながら、ある県の人は困窮し、ある県の人はそれまでとなんら変わりない生活を続けることができた。

彼我の生死を分かつ理由がたかが「場所」であるとか、こんなやりきれないことがあるだろうか、と心底思った。

僕らもまた、そんなやりきれない理由でまだ生きながらえているのだ。

妹が癌で死んだ時、担当の医師が「治せなくてすみません」と母の前で涙を流したと後から聞いた。

冷静に考えれば妹の死はその医師のせいではない。現代の医学ではもうどうしようもなかったのだ。それは間違いない。

だが、思う。もう10年後か50年後か、癌の治療法が進歩している時代なら、妹は死なずに済んだのに、と。繰言と知りつつも考えてしまう。
生死を分かつのが「時代」などというあやふやなものであることが、いつまでも納得できないでいる。
僕らはまた、そんな「時代の恩恵」などというあやふやな理由で命を取り留めている。

同じ時代に生まれ、なぜあの人は命を落とし、自分は生きながらえているのか。それは決して分からない。
だがそれは逆に言えば、いつ自分が死によって「選ばれる」のか、それもまた、誰にも分からないということなのだ。

「死」それ自体に意味はない。ましてや優劣などない。死に徒らに意味を持たせたがるのは、生者のエゴである。
だが、「生」はそれ自体に意味がある。僕らはいつ死に選ばれるのか分からない、あやふやな毎日を生きている。あやふや過ぎて、時にやりきれなくなる。
だが、生きるのだ。いつ「死」に選ばれるか分からないからこそ、今を生きるのだ。生者にできることはそれだけだ。