親という役割 〜母の日に〜

昨日、歯医者に行ってきた。
最後に行ったのは確か8年前である。
虫歯は無かったが相当に歯石が付着していたのと、永年の喫煙もあって歯茎が弱っているらしかった。
とりあえず目に見える歯石の大部分は取ってもらったが、しばらく通院が続きそうだ。
初めての経験ではないが(というか、いつもこうだ)、歯石を取ってもらって実にさっぱりした。これでまた当分は歯に気を遣い、それが過ぎたらまたどうでもよくなるのだろう。毎度のことだ。

歯医者に限らず、あまり病院にかかったことがない。整体には一時期よく通ったが、それ以外のいわゆる「病気」での通院は、一年に一度あるかないかだ。
僕はそれを、「健康だから」だと思っていた。ずっとそう思っていた(まあ、歯医者は別だが。あれは目を逸らしていただけだ)。
だが、40を越え、目に見えて色々なところが衰えてきているのが分かり、自分の考えていたことが間違っていたことだと分かった。
僕は健康だったわけではない。ただ、「若かった」だけなのだ。

たぶんこれは、全ての青年が陥る錯覚なんだろう。そして全ての中年男性がそうであるように、僕もその錯覚から覚めた。
確かに覚めたのだが、それだけだ。だからといって別に何も変わるわけでもない。
病院通いが性に合わないのとセットで、僕は、「長い目で見て体にいいこと」をしようという気になれない。
タバコを吸っているのもそうだし、でたらめな生活習慣を改めようとしないのもそのせいだろう。

世には健康法・体にいい(とされている)ものが溢れかえっている。
なぜだろうか。
当然、長生きをするためだ。
何もしなければ、我々の体は40年もすれば至るところから襤褸が出る。この体を70〜80年保たせるためには、「努力」が必要なのだ。
格好をつけるわけでも、世を拗ねているわけでもなく、僕は「長生き」に執着できないでいる。
昔からそうだった。*1

それではいけないとは思う。僕は親だからだ。少なくとも子供の人生の目鼻が付くまでは死ぬわけにはいかない。
逆に言えば、僕の人生の動機付けはそこが一番大きい。僕に限らず、親というものはそういうものだろう。
そして、親という役割に(多分)終わりはない。母を見ているとそれをいつも痛感する。

67歳の母が昨年、長年乗った軽自動車を買い替えると言った。

「もう一回車検通してもいいけど、これから10年乗ることを考えたら今買い替えた方がいいと思って」

とのことだった。
母の口から「10年後」という言葉を聞けたことが、何とはなしにうれしかった。

お母さん、まだまだ元気でいてください。
親という役割に終わりはないのだから。

*1:僕ぐらいの年齢であれば、まだ「死なない」とどこかで過信しているから、そんなことを言えるだけなのかもしれないが。