帰り還り返りて、また帰る

8月14〜17日と、実家に帰省してきた。
昨年に続き、今回も子供と二人旅だ。しかも昨年より一日長い逗留である。いつもは大体3日だが、移動で半日は費やすことを考えると、3日間では少し慌ただしい。が、4日間あれば、2日は自由になる。この差は大きい。僕は、子供をどこに連れて行くかを色々と考えていた。僕はこの日を、とても楽しみにしていた。
前日(13日)になり、母から電話があった。用件をなかなか言わない母の様子をいぶかんでいたところ、叔父が亡くなったと言った。葬儀日程は未定だが、礼服も持ってきてとのことだった。
叔父が一度入院していたことは聞いていた。しかしその後退院したと聞いていたので驚いた。全くもって、寝耳に水の話だった。なんで?と訊くと、白血病だったとのことだった。

また、である。
一昨年の夏のことが頭をよぎった。あの時も癌だった。
どうして夏はいつも僕らから家族を奪っていくのだ。

そう思ったのは僕だけではなかった。隣の部屋にいた家内と子供に、叔父が亡くなったこと、礼服を持っていく必要が出たことを(努めて平静に)告げた。「またお葬式なの?」と子供の顔が曇った。ここ何年か、帰省するのは葬儀か法要ばかりだったので、そう言われるのは覚悟していた。「そうだよ、お別れを言わないとね」と明るく答え、礼服を取りに行くのにかこつけてその場を離れた。

翌日はひどい雨だった。僕らは10時台の新幹線に乗るため、9時過ぎに家を出た。改札を済ませると、長旅に備えてお菓子や飲み物を大量に買い込んだ。僕は二人分の着替えのボストンバッグとスーツを入れたバッグを両手に持ち、貴重品を入れた小さなバッグを肩から下げていた。子供はリュックサックを背負っていた。中身は3DSと本ぐらいだった。駅は、たくさんの家族連れでごった返している。
これから、約5時間の旅だ。

米子に着いた。雨上がりでむっとしている。雨に濡れた草葉が発する匂いがする。子供の頃よく嗅いだ、米子の空気だ。帰ってきたんだな、となんとなく思った。
家に着き、仏壇の父と妹に線香を上げた。昨年同様、今年もこの部屋でお世話になる。子供ももう慣れたものだった。

翌日も雨だった。子供はすでに起きて着替えて母と朝食を食べ、居間のwiiで遊んでいた。家ではそんなこと(早起き)をしたことがないので驚いた。僕にはないが、子供にはきっとどこかに「お客さん」という意識があるんだろう。午前中に妹の旦那さんとそのお兄さん夫婦が来てくれた。雨の中を鳥取から高速で訪れ、妹に手を合わせるとまた高速で帰って行った。

今日は叔父の通夜だというので、叔母の家に挨拶に行った。
小さい頃によく遊んだ座敷に棺が置かれていた。叔父は俳優のような美男子だった。闘病の跡は見て取れたが、今は静かに眠っていた。子供には怖かったら見なくてもいいよと言った。
初めて聞いたのだが(叔母が周りに黙っていた)、叔父は11月ぐらいから入退院を繰り返していたそうだ。白血病で癌が肝臓・肺にも転移していた。ずっと無菌室にいて行っても見舞うこともできないので、それなら言わない方がいいと考えていたようだった。
叔父は、亡くなる数日前ぐらいから、担当の看護師さんたちにお礼を言って廻り、叔母や従兄弟たちにも、あと○日ぐらいだと思うから後は頼む、というようなことを言っていたそうだ。
その話を聞いて思った。叔父は「逝った」のだ。「死んだ」のではなく、後を託して、「逝った」のだ。帰りしなに叔母に、気を落とさないでと言った。叔母は笑ってうなずいていた。いらない言葉だったな、と思った。

翌日も雨だった。今日も子供は早起きだ。
どこにも連れて行ってやっていないので、雨でも行けそうなところを考えたところ、水木しげるロードに行くことにした。最近子供は「妖怪ウォッチ」が好きでよく見ている。鬼太郎も好きでよく見ている。まったく興味が無いわけではないので、まあいいだろう。ここからだと、車で30〜40分ぐらいの距離である。
水木しげるロードには妖怪のブロンズ像がところどころに飾られている。子供はそれを珍しそうに眺めながら歩いていた。

その日は19時から中学の同窓会の予定だった。子供を含め僕以外の家族は18時からの叔父の通夜に出るため、先に出て行った。僕は妹の旦那さんに同窓会の会場(駅前)まで送っていってもらうことになった。
彼に、一年どうだった?とあいまいに聞いてみた。僕のあいまいな問いにどう答えたものかと困る風でもなく、「変わりましたね」と彼は言った。
その答えもあいまいだったが、彼が僕の問いを妹についてのことだと分かったのと同じように、僕も彼の答えが妹についてのことだと分かった。
「あの時は、変わることはないと思っていたんだけど、変わるものですね」と訥々と言った。
どう変わったのかは聞かなかった。僕には彼の言っていることがよく分かった。僕もそうだったからだ。
「薄れた」でもない。もちろん「忘れた」でもない。ただ、「変わった」。そういう境地がある。僕もそうだった。
時間が来て、彼に駅まで送ってもらった。駅までの車中で、また雨が降り出した。

同窓会の会場は、僕が米子にいた頃(と言っても20年前だ)にはまだ無かった店だった。店に入ると、懐かしい顔がいた。
大体僕は高校卒業と同時に地元を離れているので、同窓会というものに参加するの自体が初めてだった。たいていは20代で1、2度、30代で1、2度と参加し、それなりにみんなの変貌ぶりを見るものなのであろうが、僕はいきなり25年ぶりだ。どんな顔でいればいいだろうかと思っていたが、僕を知る人も知らない人も、みな同じように接してくれた。
乾杯の挨拶を指名された。何を言えばいいかと思ったが、みんなの前で話すのは生徒会の副会長だった時以来です、と言った。向こうを見ると、会長もいた。乾杯をして、みな話の輪に入っていった。
会長は医者になっていた。ちょっと気になったので話をしてみた。
(ここでそんな話をする気はなかったのだが、妹が手術をした病院に勤務していると聞いたからだ)。僕は、妹を担当してくれた医師の話をした。終末治療に対する医師と家族の意見の相違、みたいな話だ。会長は相変わらず論理的に、少しだけ情熱的に話した。会長は、今でも会長だった。
話が進み、それなりに酔いも廻ってきて、ありきたりな言葉だが「嗚呼、やはり人生は色々なんだな」と思った。
堅い勤め人もいれば、会社のオーナーもいる。
去年結婚したやつもいれば、2度離婚したやつがいる。
子供が産まれたばかりのやつもいれば、孫がいるやつもいる。
(諸事情で)スキンヘッドになったやつもいれば、20代もかくやという美魔女もいる。
うまくやっているやつもいれば、ちょっとしくじってしまったやつもいる。
色々なしがらみも生まれていた。それはそうだ。僕はここに「お客さん」として来ている。明日になれば、またここを離れる。だがここにいる人の多くは、生活の延長としてこの場がある。
しかしみんな、自分の足で立って生きている。それがただ一つの共通点かもしれない。
おしゃれをしてきてる女の子たちも、よくよく話を聞いたら「娘のを借りてきた」と言っていて、ああこれが40代の同窓会あるあるなんだな、とちょっと可笑しかった。こんなふうに40代というのは、何をしてもサマにならない。若者のフリをするには重過ぎる。年寄りに混じるには重みが足りない。僕らは全員、そんな時期にいる。
結局その日は、明け方近くまで痛飲した。家に帰ると、子供と母がいっしょに寝ていた。
翌日も雨だった。結局ほとんど子供をどこにも連れて行ってやれなかった。
昨夜(明け方だが)何もせず寝てしまったので、帰り支度をした。いつもそうだが、同じ荷物なはずなのに、ボストンバッグは閉まらなかった。猫は僕の荷物を寝床にしていた。

叔父の葬儀に参列した。子供はやはり葬儀を怖がったので、焼香には参加させなかった。それでも(事情もよく分からず)神妙に座っている姿には、成長を感じた。僕らはそのまま、駅に向かった。母は、この後精進落としがあるので、子供とあわただしく別れを済ませた。
またこれから、約5時間の旅だ。始まりも終わりも雨だった。

帰りの電車で、あることに気が付いた。
「そう言えば、帽子どうした?」と子供に訊いた。
「あ、忘れた」と子供が答えた。前の日に玄関のコート掛けにかかっているのを見て、忘れないようにしないとと思ったはずなのに、礼服で出たのでやっぱり忘れてしまっていた。
どうしよう…と不安げになった子供の顔に
「まあいいさ、家に他の帽子あるし。旅に忘れ物はつきものだよ」と笑って言った。
子供はすぐに笑顔になって、「お弁当に漬け物はつきものだよね」とまぜっかえしてきた。僕はなんだそりゃ、と笑った。
「パパは、何を忘れてきたの?」
子供が上っ調子のまま、唐突にそう言った。
少し驚いた。深い意味はないのだろうが、味なことを言うと感心した。子供は時にこういう、返答が難しいことを訊くから困る。

「さあ…何だろうね」と笑った。
「パパも気付いてないかもしれない。春が気が付いたら教えてよ」
ちょっと迷ってそう言った。子供はえー、と笑っていた。
満点ではないが、まずまず間違ってはいない答えだろう。

旅に忘れ物は付き物だ。
それは別に構わない。後で気が付けばそれでいい。
でも、そのまま置いておきたい忘れ物もあったりする。いつでもいい、時が来れば取りに戻ればいい。過ごした時間と、そんなことを思い出す、大切な忘れ物のある旅。
今回もそんな旅だったことを、子供が気付かせてくれた。