余所行きの言葉

僕は、父と母から「愛している」と言われたことは一度もない。
かと言ってそれが特異なこととは思わない。もちろん父母に愛されていなかったとも思わない。
今の世代の親たち(僕もその一人ではあるが)は知らないが、僕らや、その上の世代の平均的な日本人にとって、「愛」とは普通、男女間の交情に使われる感情であり、どこまでも余所行きの言葉だった。普段の生活の中で子供にかける言葉ではなかった。
なので小学生ぐらいの頃、アメリカのドラマ「大草原の小さな家」で、インガルスの父さんがローラに「愛しているよ」と言っているシーンを観た時は、子供ながらに違和感を覚えた。僕の知っている「愛」と違ったからだ。冒頭で言ったように、愛とは男女の間でのみ使う言葉だと認識していた。当時の僕が触れていたもので言うなら「一休さん」のオープニング曲などがまさにそれだった。

愛という言葉を人類愛や家族愛という意味で使っているのは「愛の戦士レインボーマン」などはそうだろう。キン肉マンの「心に愛が無ければ」というのもそうだ(哀戦士は歌詞の上では字が違うが、ニュアンスは近いかもしれない)。 愛はヒーローという特殊な役割の人たちの資質だったのだ。

それから数年後に「クレイマークレイマー」でダスティホフマンが子供に「愛しているよ」と言ったのを観た時も、頭では分かってはいたがやはり違和感はあった。loveは確かに「愛」と訳すが、概念はちょっと違うんじゃないかと思っていた。
ではなぜ日本語(日本人)にとって愛という言葉や概念が余所行きなのだろうと考えてみたところ、理由として一つ思い当たることがあった。日本は、上で例えとして出した「大草原の小さな家」と「クレイマークレイマー」の舞台になった国のアメリカとは文化的に大きく違う点がある。
日本には愛という概念を学ぶ機会がないが、他の文化ではその機会を与えるという役割を担う機関がある。それは宗教だ。

日本には道徳があるが、生活に根差したものではない。それでも宗教が無くても「愛」という言葉の辞書的な意味は教えられるだろう。だがそれはただの知識だ。それの意味するところの倫理観を教えたことにはならない。生きとし生けるものにといった普遍的な愛を教えるのに、道徳では足りない。なので僕のように「愛」という言葉に触れたのはJPOPの歌詞でのみだというような子供ができるわけだ(しかも巷では愛という言葉が氾濫しすぎて、価値は下がる一方だ)。 
これが僕が日本では「愛」が余所行きの言葉になってしまったと考える理由だ。要するに使い方を学ぶ機会が無いのだ(根拠が個人的経験に基づいているだけなのは認める)。

僕は愛という言葉のイメージを明確にできないまま大人になった。
それによって苦労したとまでは言わないが、もしかしてこれが愛なのだろうかと言葉にできない感情に戸惑ったことはあった。
その言葉に耐性がなかったからだ。

だから子どもには愛という言葉に耐性を付けさせるため、「愛しているよ」と毎日言うことにしている。