四つ葉のクローバー

子供と公園に行ってきた。

家で仕事をしないといけなかったが、普段あまり遊んでやれていないし、少し遠出をして前から行きたいと言っていた大きな遊具のある公園に行った。

Webサイトで写真を見ただけだったが、公園は期待通りの場所だった。大きな敷地に大型の遊具をたくさん備えている。中でも子供は垂直落下式の滑り台がお気に入りで(高所恐怖症の僕には気が知れなかったが)、何度も並んでは滑って嬌声を上げていた。

ひとしきり遊んだ後、子供が駆け出していった。追いかけていったが、大勢の子供の波にまぎれて見失ってしまった。

しばらく探していたら子供の後ろ姿が見えた。滑り台(さっきの落下式ではない)の下に座りこんでいた。疲れたのだろうか?と思って歩いて行き、どうしたの?と声をかけた。

座りこんで下を向いていた子供は僕を見上げると、「前にね、公園で四つ葉のクローバーを見つけたことがあるんだよ」と応え、また下を見た。唐突な言葉だったが、子供が座りこんでいたのは雑草が茂っている草生えで、視線の先にはクローバーがたくさん茂っていた。

なるほどなと思いつつ、それはすごいなと僕が言うと、子供は「しまっておいたんだけど、ボロボロになっちゃった。でもね、四つ葉のクローバー見つけたけど、ぜんぜん幸福にならなかったよ」と答えた。

ちょっと引っかかった。子供から「幸せ」という言葉を聞いたのは初めてだったからだ。幸せになれなかったの?と聞いてみた。子供はあいまいに地面を見たまま、「だって、かけっこも速くならないし、鬼ごっこでもいつも鬼ばっかりだったよ」と言った。

なんと答えていいか分からなかったので、そうか…とだけ言ったのだが、内心では正直、苦笑が出そうになった。が、子供なりに真剣にそれ(幸福)を期待したうえでのことだったのだろうと思い返し、笑うのはやめた。僕も子供の頃はそんなことを夢見たこともあった。

そして同時に、僕は少し安心した。

今日初めて子供から「幸福」という言葉を聞いた。「幸せ」の意味するところは人それぞれだ。僕は僕の子供が「幸せ」をどういう意味で使っているのか気になった。

しかしさっきの言葉を聞いて、少なくとも今の子供にとって「幸せ」とは、もっと足が速くなりたいとか、「現在の自分や生活+アルファの何か」のことであるということが分かった。子供にとっての幸せは、未来にあるのだ。

当たり前といえば当たり前のことだろう。まだ10年にも満たない何も持たざる人生である。「得る」ことを幸せだと考えるのは当然のことだ。

だが実は、さっき子供に「幸福じゃない」と言われた時に僕はとっさに、そんなことないよ、毎日元気に過ごせているじゃないか、と言いかけた。言いかけて、これは理解できないだろうと思って言うのをやめた。

いや、おそらく理解はできるだろう。だが共感はできないだろう。これは未来のない人間の考えだからだ。もう僕にとっての幸せは「現状がマイナスにならないこと」であり、子供とは逆なのだ。

「なんでもないようなことが、幸せだったと思う」という有名な歌詞がある。奇しくもというべきか、公園から帰って夕飯を食べながら観ていたサザエさんでも、フネさんが「なんにもないことが、一番幸せなんだよ」とタイコさんに言っていた。どちらもよく分かる。これが「老い」だというのなら、確かにそうなんだろう。

だが、それでいい。得ようとするハングリーな幸せもあれば、失うまいと穏やかに見守る幸せもあるだろう。

子供は疲れたのか、帰りの車で寝てしまっていた。が、アパートに帰りつくとまた元気を取り戻してゲームで遊びだした。

僕はそれを尻目に夕飯の支度を始めた。鶏肉があったので子供の好きな唐揚げを作った。

子供はサザエさんを観ながら、いつものように美味しいとも不味いとも言わず、もくもくと食べていた。でも、僕には分かっていた。子供はいつも、一番好きなものを残しておいて最後に食べる。

子供は最後に残しておいた唐揚げを平らげると、僕の顔を見て「ごちそうさま。おいしかった」と笑って言った。僕も「お粗末さま。たくさん食べたね」と笑って言った。

その時僕は、確かに「幸せ」を感じていたのだ。