もらいもの

今日、こんなツイートを見た。

これを読み、僕も思いがけず似たような経験をしたことがあるのを思い出した。

数年前のことである。
当時住んでいたマンション(1階)のベランダで座ってタバコを吸っていたら、通りの向こうを歌いながら歩いてくる人声が聴こえた。
僕は座っていたのでベランダの向こうは見えなかったが、声の感じからしておそらく中高生らしい女の子たち4、5人ぐらいだろう。歌の途中だが、聞き覚えのある曲だ。
…そうだ、「小さな恋の歌」だ、と僕が気がつく間にも女の子たちの歌声はどんどんこちらに近付いて来ていた。

いつしか二人互いに響く 時に激しく 時に切なく

歌声は笑いを含んでいた。僕からも向こうからもお互いは見えなかったが、
おそらく彼女たちは笑顔を見合わせながら、誰が言い出したのか分からないこの即興ライブを楽しんでいるのがよく分かった。

僕はすぐにタバコを消して息をひそめた。全くの不意打ちにどうしていいか分からないでいた。
一生のうちでこんな光景に出くわすことなど、そうそうあるもんじゃない。僕の経験の中ででこんな状況に対する対処法は無かった。
とにかく「歌を止めさせてはいけない」という考えだけが頭に浮かんだ。

誰も居ないと思っているはずのベランダで、くたびれた中年男(彼女たちにとって、一番聴かれたくない存在だろう)が
そんなことを考えているとも知らず、彼女たちの歌はサビに入り、僕の前を通り過ぎていった。

“ほら あなたにとって大事な人ほど すぐそばにいるの
ただ あなたにだけ届いて欲しい 響け恋の歌
ほら ほら ほら 響け恋の歌”

その部分は僕も知っていたので、知らず知らずのうちに心の中で一緒に歌っていた。
声は一際大きく、笑い声は一層明るかった。
彼女たちの一人ひとりの胸には、どんな想いが行き交っているのだろうか。そんなことが頭をよぎった。
そして彼女たちは知っているだろうか、仲間とこんなことをできる時間は意外と短いということを。
いや、そんなことは知らなくてもいいか。現在を生きている彼女たちのような存在は、そんな無粋なことは考えはしないだろう。僕だって当時はそうだった。

歌声は少しずつ遠ざかっていった。僕はほうとため息をついた。頭はまだ切ない余韻に浸っていた。
言わば青春のお裾分けという、突然のプレゼントをもらったようだった。
これが今日僕が思い出したことだ。
あれから何年か経つが、今でもあの時の笑いを含んだ歌声は耳に残っている。

親の身勝手

子供が学校でからかわれた話をしていた。笑って話していたので、嫌な体験ではなかったのかどうかよく分からなかったのだが、最後に「ほんとは嫌だった」と言っていた。
話を聞き終わって子供を横に座らせて、お父さんもそうだったから分かるけど、嫌なこと嫌と言えないと、大人になってつらい思いをするよ、と話した。
この話は何度もしてきた。ただもう子供が変わるのは難しいかもしれないと思っている。それでも今日も言った。
子供はうん、と言っていた。それは自分でも分かっているよ、という顔だった。
嫌なことを嫌と言うと、けんかになることもあるよね、と水を向けてみた。
子供はうん、と言い、友達がいなくなっちゃうんじゃないかとこわくなる、と言った。
少し驚いた。小さい小さいと思っていたが、そんなことを考える歳になっていたんだな、と思った。
そしてこれはまさに今の自分の悩みと同じなので、解決できない自分が何を言う資格があるのかとは思いつつ、そうだね、それもよく分かるよ、お父さんもそれを考えて嫌と言えないことが多いから、と言った。
でもね、嫌なことをされて嫌と言って、それで友達をやめるような子は元々友達じゃないんだよ、と言った。
じゃあ、友達はいなくてもいいってこと?と訊かれたので、そうじゃなくて、嫌なことを嫌だと言っても、逆に君が嫌なことをしてしまって嫌と言われても、それでも友達でいられるのが本当の友達だよ、きっとそんな人に会えるよ、と答えた。

子供は、うん、と言った。
そんな子供を見て、やっぱり親子だな、と思った。
子供は変われるだろうか。それは分からない。
変われないのなら、願わくば嫌と言わなければならない状況が少しでも少ないことを願う。君の父親のようにはならないでほしい、といつものように勝手なことを思った日だった。

わるいひと

PCに向かっていたら、付けっ放しにしているテレビから、「後藤健二氏の映像が動画配信サイトにアップされた」というニュースが流れた。
速報のためかどうも要領を得ないが、湯川遥菜氏の画像を持った映像が投稿されたらしい。これは大変なことになったな…とテレビを観ていたら、携帯にLINEの通知が来た。

アッサラームチュニジア南部のサハラの街、メドニンにおります」

ゴウ君からだった。

ゴウ君のことは何度かこのブログでも書いた。高校の同級生で、地元で雑貨屋を営んでいる。
海外の民芸品やアクセサリーなどを取り扱っていて、売っている商品は、全て彼が現地で自ら買い付けたものだ。そのため年に何度か海外に足を運んでいる。行き先もアジア・中東・南米・アフリカと多岐に渡っている(いつもの紹介だ)。彼は数少ない、僕の友達だ。
なんてタイミングだと思いつつ、そう言えば1月末からアフリカに買い付けに行くと年賀状に書いてあったことを思い出した。

なんと返信しようかと思ったが、

「不思議な建築物だね。こういう、歴史的背景が分からないものって、なんか惹かれるな」

と返した。すると、すぐに

ベルベル人のクサールです」

と返信が来た。

さっきの返信にも書いたが、北アフリカの建築物ともなると、何様式であるとか、どの文化の影響を受けているかとか、まったく理解の埒外である。日本の長屋のようにも見えるし、倉庫のようにも見える。*1こういったものを見る機会は普通に過ごしていてはまずないので、素直に感動した。
同時に、そんな場所にいるゴウ君に羨ましさも感じた(勝手なものだ)。しかし、ちょっと我に返り、先ほどの緊急速報のことを思い出した。

「日本人観光客いる?」

と聞いてみた。



「日本人どころか欧米人も全くいない。ジャスミン革命からちょうど4週間、敬遠されているみたいだ」

と返信が来た。なるほど、アラブの春だったっけか。
チュニジアについての知識など僕には全く無いが、ゴウ君にとっては現地の治安にも関わるので、世界情勢を知ることは旅を続けるために必要なことなのだろう。世界を放浪する人間の性もあるだろう。元々旅好きが高じてそれを仕事にしてしまったような男だ。海外など新婚旅行で一度行ったきりの僕には、想像もつかない。

ゴウ君は、「悪い人」だ。
といって悪事を働くとか、性根が曲がっているとか、そういった意味ではない。
他人への影響力が強すぎるのだ。

「そうだよね。今日本では緊急ニュースやってる。後藤さんの動画がアップされたって。」

そう返信した。
すぐに返答があった。

「マジ!イスラム国参加者はチュニジアからが一番多いのでね」

ゴウ君の店は、地元でも人気がある。他にも同様の商品を扱っている店はあるが、卸で入荷している店が多いらしく、高いそうだ。
だがそれよりも、ゴウ君の人好きする人柄が、お客を引き付けるのだ。海外経験豊富で話も面白い。商品のことを聞いてみると、それを買い付けた国の話を面白おかしく話してくれる。今は観光地に店があるが、昔市内の商店街に店を構えていた頃は、中高生のお客も多く、慕われて相談などを受けていたそうだ。僕はそんな話を聞くたびに、「危険だな」といつも思っていた。
ゴウ君のような生き方に憧れる人は多いだろう。組織に縛られず、普通の人なら一生に何度か行くかどうかの海外旅行に毎年のように行き、しかもそれでお金を稼いでいる。海外ではこんなに面白い体験をしている。なんて自由で楽しい仕事だろう!自分も旅が好きだし、やってみたい!
そんなふうに思う人も多いんじゃないだろうか、特に若者には。

「今一番行ってはいけないところじゃないか…。後藤さんの件は、Youtubeに声明が出てたそうだ。まだ真偽は分からないみたいだけど」

ゴウ君に返信した。

チュニジア人は人懐こくていい人ばかりです。ただ急進的なごくごく一部がやっていることなんでね」

しかし、当然だが、ゴウ君のような生き方は誰にでもできるわけではない。海外の生活だって、話に聞く分には面白いかもしれない(もちろんゴウ君も話を選んでしているだろう)、だが、それを仕事にするのは、同じぐらい苦労があるはずだ。パックでガイドつきの快適な旅行をするのとはわけが違うのだ。
だが、それは見えない。なぜなら、(ここが一番厄介だが)ゴウ君はそんなものを苦労だと全く思っていないからだ。
自分が好きなことをしていることの自覚がある。だから旅先で起こったことを何でも笑い飛ばせる。
ゴウ君を見て「自分もああなりたい」と思うのは勝手だ。だが、誰にでもできることではないのだ。

「そうなんだね。君も仕事とはいえ大変だな」

「全く大変と思ってないよ。日々楽しんでおりますので」

「そうか。それが一番だよね」

ゴウ君のような人には、これまでの人生で何人か出会った。自分のカリスマ性に無自覚なタイプだ。そうしようと思っているわけはないが、若者に「ああなりたい」と思わせてしまう。
特にゴウ君のような「引き換えにするものの多い」生き方に若者を憧れさせるのは性質が悪い。それを頭で分かっていても憧れてしまう。
だから彼は悪人なのだ。

ゴウ君から返信が来た。

「今ホテル前警察きた。なんかもめてる。ちょっと行ってくる!」

そう言って(おそらく)ゴウ君は出て行った。苦笑が出た。
なんという自由だろう。こんなふうに見知らぬ国で見知らぬ人たちと僕らの知りえない景色を見ているんだろう。それを思うと、不惑を過ぎて固まってしまった僕の心さえ動揺させる何かを感じた。
やっぱり彼は「悪人」だ。

才能

これはもう一種の才能のようなものかもしれないが、何かを選ぶ時、たいてい「そっちじゃない方」を選んでしまう。

例えば、仕事が終わって帰宅する。家の前で鍵を取り出そうとして、鍵はコートの左右どちらかのポケットに入れていたことを思い出す。右だろうと思って右のポケットに手を入れると、入っていない。朝家を出る時に左に入れていたのだ。色々な場面でこういったことに遭遇する。

対策は簡単だ。自分がこっちだと思った方の反対を選べばいいのだ。
そんなふうに思っていた時期が僕にもあった。

だが、そんなに単純ではないのだ。

右だっけ?左だっけ?と試行錯誤し、右だと思うけど逆にしてみて左を選んでみる。
すると右が正しかったりするのだ。
このように、過程は関係なく、「僕が結果的に選んだ方」が間違っているのだ。

僕が、運命は変えられるという言葉が信用できないのもそのためだ。
単なる言葉の綾だが、変わったとしたら、その結果こそが運命だと思うからだ。

そそっかしさをこじらせると、このようにひねた人間になってしまうという話。

四つ葉のクローバー

子供と公園に行ってきた。

家で仕事をしないといけなかったが、普段あまり遊んでやれていないし、少し遠出をして前から行きたいと言っていた大きな遊具のある公園に行った。

Webサイトで写真を見ただけだったが、公園は期待通りの場所だった。大きな敷地に大型の遊具をたくさん備えている。中でも子供は垂直落下式の滑り台がお気に入りで(高所恐怖症の僕には気が知れなかったが)、何度も並んでは滑って嬌声を上げていた。

ひとしきり遊んだ後、子供が駆け出していった。追いかけていったが、大勢の子供の波にまぎれて見失ってしまった。

しばらく探していたら子供の後ろ姿が見えた。滑り台(さっきの落下式ではない)の下に座りこんでいた。疲れたのだろうか?と思って歩いて行き、どうしたの?と声をかけた。

座りこんで下を向いていた子供は僕を見上げると、「前にね、公園で四つ葉のクローバーを見つけたことがあるんだよ」と応え、また下を見た。唐突な言葉だったが、子供が座りこんでいたのは雑草が茂っている草生えで、視線の先にはクローバーがたくさん茂っていた。

なるほどなと思いつつ、それはすごいなと僕が言うと、子供は「しまっておいたんだけど、ボロボロになっちゃった。でもね、四つ葉のクローバー見つけたけど、ぜんぜん幸福にならなかったよ」と答えた。

ちょっと引っかかった。子供から「幸せ」という言葉を聞いたのは初めてだったからだ。幸せになれなかったの?と聞いてみた。子供はあいまいに地面を見たまま、「だって、かけっこも速くならないし、鬼ごっこでもいつも鬼ばっかりだったよ」と言った。

なんと答えていいか分からなかったので、そうか…とだけ言ったのだが、内心では正直、苦笑が出そうになった。が、子供なりに真剣にそれ(幸福)を期待したうえでのことだったのだろうと思い返し、笑うのはやめた。僕も子供の頃はそんなことを夢見たこともあった。

そして同時に、僕は少し安心した。

今日初めて子供から「幸福」という言葉を聞いた。「幸せ」の意味するところは人それぞれだ。僕は僕の子供が「幸せ」をどういう意味で使っているのか気になった。

しかしさっきの言葉を聞いて、少なくとも今の子供にとって「幸せ」とは、もっと足が速くなりたいとか、「現在の自分や生活+アルファの何か」のことであるということが分かった。子供にとっての幸せは、未来にあるのだ。

当たり前といえば当たり前のことだろう。まだ10年にも満たない何も持たざる人生である。「得る」ことを幸せだと考えるのは当然のことだ。

だが実は、さっき子供に「幸福じゃない」と言われた時に僕はとっさに、そんなことないよ、毎日元気に過ごせているじゃないか、と言いかけた。言いかけて、これは理解できないだろうと思って言うのをやめた。

いや、おそらく理解はできるだろう。だが共感はできないだろう。これは未来のない人間の考えだからだ。もう僕にとっての幸せは「現状がマイナスにならないこと」であり、子供とは逆なのだ。

「なんでもないようなことが、幸せだったと思う」という有名な歌詞がある。奇しくもというべきか、公園から帰って夕飯を食べながら観ていたサザエさんでも、フネさんが「なんにもないことが、一番幸せなんだよ」とタイコさんに言っていた。どちらもよく分かる。これが「老い」だというのなら、確かにそうなんだろう。

だが、それでいい。得ようとするハングリーな幸せもあれば、失うまいと穏やかに見守る幸せもあるだろう。

子供は疲れたのか、帰りの車で寝てしまっていた。が、アパートに帰りつくとまた元気を取り戻してゲームで遊びだした。

僕はそれを尻目に夕飯の支度を始めた。鶏肉があったので子供の好きな唐揚げを作った。

子供はサザエさんを観ながら、いつものように美味しいとも不味いとも言わず、もくもくと食べていた。でも、僕には分かっていた。子供はいつも、一番好きなものを残しておいて最後に食べる。

子供は最後に残しておいた唐揚げを平らげると、僕の顔を見て「ごちそうさま。おいしかった」と笑って言った。僕も「お粗末さま。たくさん食べたね」と笑って言った。

その時僕は、確かに「幸せ」を感じていたのだ。

余所行きの言葉

僕は、父と母から「愛している」と言われたことは一度もない。
かと言ってそれが特異なこととは思わない。もちろん父母に愛されていなかったとも思わない。
今の世代の親たち(僕もその一人ではあるが)は知らないが、僕らや、その上の世代の平均的な日本人にとって、「愛」とは普通、男女間の交情に使われる感情であり、どこまでも余所行きの言葉だった。普段の生活の中で子供にかける言葉ではなかった。
なので小学生ぐらいの頃、アメリカのドラマ「大草原の小さな家」で、インガルスの父さんがローラに「愛しているよ」と言っているシーンを観た時は、子供ながらに違和感を覚えた。僕の知っている「愛」と違ったからだ。冒頭で言ったように、愛とは男女の間でのみ使う言葉だと認識していた。当時の僕が触れていたもので言うなら「一休さん」のオープニング曲などがまさにそれだった。

愛という言葉を人類愛や家族愛という意味で使っているのは「愛の戦士レインボーマン」などはそうだろう。キン肉マンの「心に愛が無ければ」というのもそうだ(哀戦士は歌詞の上では字が違うが、ニュアンスは近いかもしれない)。 愛はヒーローという特殊な役割の人たちの資質だったのだ。

それから数年後に「クレイマークレイマー」でダスティホフマンが子供に「愛しているよ」と言ったのを観た時も、頭では分かってはいたがやはり違和感はあった。loveは確かに「愛」と訳すが、概念はちょっと違うんじゃないかと思っていた。
ではなぜ日本語(日本人)にとって愛という言葉や概念が余所行きなのだろうと考えてみたところ、理由として一つ思い当たることがあった。日本は、上で例えとして出した「大草原の小さな家」と「クレイマークレイマー」の舞台になった国のアメリカとは文化的に大きく違う点がある。
日本には愛という概念を学ぶ機会がないが、他の文化ではその機会を与えるという役割を担う機関がある。それは宗教だ。

日本には道徳があるが、生活に根差したものではない。それでも宗教が無くても「愛」という言葉の辞書的な意味は教えられるだろう。だがそれはただの知識だ。それの意味するところの倫理観を教えたことにはならない。生きとし生けるものにといった普遍的な愛を教えるのに、道徳では足りない。なので僕のように「愛」という言葉に触れたのはJPOPの歌詞でのみだというような子供ができるわけだ(しかも巷では愛という言葉が氾濫しすぎて、価値は下がる一方だ)。 
これが僕が日本では「愛」が余所行きの言葉になってしまったと考える理由だ。要するに使い方を学ぶ機会が無いのだ(根拠が個人的経験に基づいているだけなのは認める)。

僕は愛という言葉のイメージを明確にできないまま大人になった。
それによって苦労したとまでは言わないが、もしかしてこれが愛なのだろうかと言葉にできない感情に戸惑ったことはあった。
その言葉に耐性がなかったからだ。

だから子どもには愛という言葉に耐性を付けさせるため、「愛しているよ」と毎日言うことにしている。

帰り還り返りて、また帰る

8月14〜17日と、実家に帰省してきた。
昨年に続き、今回も子供と二人旅だ。しかも昨年より一日長い逗留である。いつもは大体3日だが、移動で半日は費やすことを考えると、3日間では少し慌ただしい。が、4日間あれば、2日は自由になる。この差は大きい。僕は、子供をどこに連れて行くかを色々と考えていた。僕はこの日を、とても楽しみにしていた。
前日(13日)になり、母から電話があった。用件をなかなか言わない母の様子をいぶかんでいたところ、叔父が亡くなったと言った。葬儀日程は未定だが、礼服も持ってきてとのことだった。
叔父が一度入院していたことは聞いていた。しかしその後退院したと聞いていたので驚いた。全くもって、寝耳に水の話だった。なんで?と訊くと、白血病だったとのことだった。

また、である。
一昨年の夏のことが頭をよぎった。あの時も癌だった。
どうして夏はいつも僕らから家族を奪っていくのだ。

そう思ったのは僕だけではなかった。隣の部屋にいた家内と子供に、叔父が亡くなったこと、礼服を持っていく必要が出たことを(努めて平静に)告げた。「またお葬式なの?」と子供の顔が曇った。ここ何年か、帰省するのは葬儀か法要ばかりだったので、そう言われるのは覚悟していた。「そうだよ、お別れを言わないとね」と明るく答え、礼服を取りに行くのにかこつけてその場を離れた。

翌日はひどい雨だった。僕らは10時台の新幹線に乗るため、9時過ぎに家を出た。改札を済ませると、長旅に備えてお菓子や飲み物を大量に買い込んだ。僕は二人分の着替えのボストンバッグとスーツを入れたバッグを両手に持ち、貴重品を入れた小さなバッグを肩から下げていた。子供はリュックサックを背負っていた。中身は3DSと本ぐらいだった。駅は、たくさんの家族連れでごった返している。
これから、約5時間の旅だ。

米子に着いた。雨上がりでむっとしている。雨に濡れた草葉が発する匂いがする。子供の頃よく嗅いだ、米子の空気だ。帰ってきたんだな、となんとなく思った。
家に着き、仏壇の父と妹に線香を上げた。昨年同様、今年もこの部屋でお世話になる。子供ももう慣れたものだった。

翌日も雨だった。子供はすでに起きて着替えて母と朝食を食べ、居間のwiiで遊んでいた。家ではそんなこと(早起き)をしたことがないので驚いた。僕にはないが、子供にはきっとどこかに「お客さん」という意識があるんだろう。午前中に妹の旦那さんとそのお兄さん夫婦が来てくれた。雨の中を鳥取から高速で訪れ、妹に手を合わせるとまた高速で帰って行った。

今日は叔父の通夜だというので、叔母の家に挨拶に行った。
小さい頃によく遊んだ座敷に棺が置かれていた。叔父は俳優のような美男子だった。闘病の跡は見て取れたが、今は静かに眠っていた。子供には怖かったら見なくてもいいよと言った。
初めて聞いたのだが(叔母が周りに黙っていた)、叔父は11月ぐらいから入退院を繰り返していたそうだ。白血病で癌が肝臓・肺にも転移していた。ずっと無菌室にいて行っても見舞うこともできないので、それなら言わない方がいいと考えていたようだった。
叔父は、亡くなる数日前ぐらいから、担当の看護師さんたちにお礼を言って廻り、叔母や従兄弟たちにも、あと○日ぐらいだと思うから後は頼む、というようなことを言っていたそうだ。
その話を聞いて思った。叔父は「逝った」のだ。「死んだ」のではなく、後を託して、「逝った」のだ。帰りしなに叔母に、気を落とさないでと言った。叔母は笑ってうなずいていた。いらない言葉だったな、と思った。

翌日も雨だった。今日も子供は早起きだ。
どこにも連れて行ってやっていないので、雨でも行けそうなところを考えたところ、水木しげるロードに行くことにした。最近子供は「妖怪ウォッチ」が好きでよく見ている。鬼太郎も好きでよく見ている。まったく興味が無いわけではないので、まあいいだろう。ここからだと、車で30〜40分ぐらいの距離である。
水木しげるロードには妖怪のブロンズ像がところどころに飾られている。子供はそれを珍しそうに眺めながら歩いていた。

その日は19時から中学の同窓会の予定だった。子供を含め僕以外の家族は18時からの叔父の通夜に出るため、先に出て行った。僕は妹の旦那さんに同窓会の会場(駅前)まで送っていってもらうことになった。
彼に、一年どうだった?とあいまいに聞いてみた。僕のあいまいな問いにどう答えたものかと困る風でもなく、「変わりましたね」と彼は言った。
その答えもあいまいだったが、彼が僕の問いを妹についてのことだと分かったのと同じように、僕も彼の答えが妹についてのことだと分かった。
「あの時は、変わることはないと思っていたんだけど、変わるものですね」と訥々と言った。
どう変わったのかは聞かなかった。僕には彼の言っていることがよく分かった。僕もそうだったからだ。
「薄れた」でもない。もちろん「忘れた」でもない。ただ、「変わった」。そういう境地がある。僕もそうだった。
時間が来て、彼に駅まで送ってもらった。駅までの車中で、また雨が降り出した。

同窓会の会場は、僕が米子にいた頃(と言っても20年前だ)にはまだ無かった店だった。店に入ると、懐かしい顔がいた。
大体僕は高校卒業と同時に地元を離れているので、同窓会というものに参加するの自体が初めてだった。たいていは20代で1、2度、30代で1、2度と参加し、それなりにみんなの変貌ぶりを見るものなのであろうが、僕はいきなり25年ぶりだ。どんな顔でいればいいだろうかと思っていたが、僕を知る人も知らない人も、みな同じように接してくれた。
乾杯の挨拶を指名された。何を言えばいいかと思ったが、みんなの前で話すのは生徒会の副会長だった時以来です、と言った。向こうを見ると、会長もいた。乾杯をして、みな話の輪に入っていった。
会長は医者になっていた。ちょっと気になったので話をしてみた。
(ここでそんな話をする気はなかったのだが、妹が手術をした病院に勤務していると聞いたからだ)。僕は、妹を担当してくれた医師の話をした。終末治療に対する医師と家族の意見の相違、みたいな話だ。会長は相変わらず論理的に、少しだけ情熱的に話した。会長は、今でも会長だった。
話が進み、それなりに酔いも廻ってきて、ありきたりな言葉だが「嗚呼、やはり人生は色々なんだな」と思った。
堅い勤め人もいれば、会社のオーナーもいる。
去年結婚したやつもいれば、2度離婚したやつがいる。
子供が産まれたばかりのやつもいれば、孫がいるやつもいる。
(諸事情で)スキンヘッドになったやつもいれば、20代もかくやという美魔女もいる。
うまくやっているやつもいれば、ちょっとしくじってしまったやつもいる。
色々なしがらみも生まれていた。それはそうだ。僕はここに「お客さん」として来ている。明日になれば、またここを離れる。だがここにいる人の多くは、生活の延長としてこの場がある。
しかしみんな、自分の足で立って生きている。それがただ一つの共通点かもしれない。
おしゃれをしてきてる女の子たちも、よくよく話を聞いたら「娘のを借りてきた」と言っていて、ああこれが40代の同窓会あるあるなんだな、とちょっと可笑しかった。こんなふうに40代というのは、何をしてもサマにならない。若者のフリをするには重過ぎる。年寄りに混じるには重みが足りない。僕らは全員、そんな時期にいる。
結局その日は、明け方近くまで痛飲した。家に帰ると、子供と母がいっしょに寝ていた。
翌日も雨だった。結局ほとんど子供をどこにも連れて行ってやれなかった。
昨夜(明け方だが)何もせず寝てしまったので、帰り支度をした。いつもそうだが、同じ荷物なはずなのに、ボストンバッグは閉まらなかった。猫は僕の荷物を寝床にしていた。

叔父の葬儀に参列した。子供はやはり葬儀を怖がったので、焼香には参加させなかった。それでも(事情もよく分からず)神妙に座っている姿には、成長を感じた。僕らはそのまま、駅に向かった。母は、この後精進落としがあるので、子供とあわただしく別れを済ませた。
またこれから、約5時間の旅だ。始まりも終わりも雨だった。

帰りの電車で、あることに気が付いた。
「そう言えば、帽子どうした?」と子供に訊いた。
「あ、忘れた」と子供が答えた。前の日に玄関のコート掛けにかかっているのを見て、忘れないようにしないとと思ったはずなのに、礼服で出たのでやっぱり忘れてしまっていた。
どうしよう…と不安げになった子供の顔に
「まあいいさ、家に他の帽子あるし。旅に忘れ物はつきものだよ」と笑って言った。
子供はすぐに笑顔になって、「お弁当に漬け物はつきものだよね」とまぜっかえしてきた。僕はなんだそりゃ、と笑った。
「パパは、何を忘れてきたの?」
子供が上っ調子のまま、唐突にそう言った。
少し驚いた。深い意味はないのだろうが、味なことを言うと感心した。子供は時にこういう、返答が難しいことを訊くから困る。

「さあ…何だろうね」と笑った。
「パパも気付いてないかもしれない。春が気が付いたら教えてよ」
ちょっと迷ってそう言った。子供はえー、と笑っていた。
満点ではないが、まずまず間違ってはいない答えだろう。

旅に忘れ物は付き物だ。
それは別に構わない。後で気が付けばそれでいい。
でも、そのまま置いておきたい忘れ物もあったりする。いつでもいい、時が来れば取りに戻ればいい。過ごした時間と、そんなことを思い出す、大切な忘れ物のある旅。
今回もそんな旅だったことを、子供が気付かせてくれた。