知る、知らない、知らされる

パーティージョークをひとつ。

八っつあん「又、悪いニュースともっと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
又吉「…いや、自分はいいっス」
八っつあん「じゃあ、悪いニュースからな」
又吉「…だからいいって…」
八っつあん「(小声で)日本が、極秘で核実験に成功したらしい」
又吉「大変じゃないですか!…もっと悪いニュースって何です!?」
八っつあん「これを知った人間は消されるらしい」

ジャンジャン。

たまに「知らない方が幸せだった」と思える現実に直面することがある。それが自分から知りたいと望んだにしろ、不可抗力的に知ってしまったにしろ、何かについて「知らない」という状態は「マイナス」ではなく、「ゼロ」に過ぎないので、それ自体に幸不幸はない。知りたくなかったことを知ってしまって初めて「マイナス」になるのである(もちろん知って幸せなことなら「プラス」になる)。 人間にとって、「知らない」ということは存在していないのとほぼ同義だからだ。

しかし、法律や制度やキャンペーン告知みたいに知らないがゆえに損をすることもある。なのでたまに「自分だけが知らなくて損をしているんじゃないか?」という不安に駆られたりもする。ソクラテスの言葉に「無知の知」というものがあるが、自分が何かについて「知らない」ということを知ってしまった時点で、この不安が起こるわけだ。



現代は「誰かがどこかでうまい事やっている」時代であると言った人がいた。この時代に生きる僕らが幸せになるためには「うまい事やる」人になるか「うまい事やっている人が存在することすら知らない」人にならないといけないということだろう。

残念ながら僕はどちらでもなさそうだ。そうである以上、「知らないのか?、知っているのか?、知った方がいいのか?」と悶々とするしかない。

このようなことを前に「アブラモビッチ氏、離婚慰謝料1兆円」というニュースを見て思ったのであったのだったが、今日「紗栄子(24)、月1000万円の養育費を要求」を見てまた思い出したのだった。