「自己表現」の説得力 −ポロシャツ裏返しで出社して考えたこと

(タイトルは盛ってます)

今朝、出社して上着(ジャケット)を脱いで業務の準備をしていたら違和感を感じた。やけにシャツの襟が立っているのだ。
おいおい俺はジローラモさんじゃないぜと思いつつよく確認したところ、なんのことはない、ポロシャツを裏返しに着ていたことに気が付いた。ジャケットを着ていたとはいえ、これで満員電車に乗って普通に出社していたのかと思うといささか情けなかったので、さっそくその旨をTwitterにpostした。

【速報】家から会社まで、ポロシャツを裏返しに着ていた。(38歳 男性)

すると以下のリプライをもらった。

高校の頃、スウェットを裏返しに着るのが、主に女子の間で流行りました。ブームに乗って、裏地スウェットなんていうものも登場。

実は僕もシャツ裏返しに気づいた時、昔サザエさんでポロシャツを裏返しに着てる若者に注意しようとして波平さん(だったか?)にカツオくんが「あれは流行のファッションだ」と教えて波平さんがギャフンとなったエピソードのことを思い出していた。どんなに奇抜で珍妙な格好だろうと、本人が「これはファッションです」と言えばそれは確かにその通りなわけで、周りがとやかく言う筋合いでもない(公序良俗に反したものはまあアレだが)。ただし周りに注意されたり、疑問に思われるという時点である意味ファッションとしては成り立っていないとも言える。サザエさんの例では波平さんが注意しようと思ったのはそれが「間違い」であると認識したからだ。つまりその時点でこのファッションは「説得力」に欠けているということになる。
もちろんこれは見る側の文化的な背景や見せる側のパーソナリティにも大きく関わってくる。たとえば、ガガ様が生肉を体にまとっていればそれは「ドレス」だと回りは認識する。同じことを僕がやったら鳩やカラスに襲われるし、おまわりさんこっちですと通報されるだろう。ガガ様には生肉を「ファッション」と見なされる説得力が存在する(これはポロシャツ裏返しの例とは少しずれた話だが)。

ファッションにしろデザインにしろ、およそ表現というものが受け入れられるかどうかは、表現に「説得力」があるかどうかだ。これは仕事をしていていつも痛感することである。
たとえばIT系の企業のサイトや会社案内などで「ネットワーク」をイメージさせるビジュアルデザイン、みたいな要望を聞いたとする(実際にはここまで大雑把ではないが)。そうすると「ネットワーク」を自分なりに解釈して絵を作るのであるが、作りながらはたしてこれはこちらの意図が見た人に伝わるだろうかと自問自答を繰り返す。時には「ひどいこじつけだ」と自分で思ってしまうこともあったりするが、そういったものはやはり通用しなかったりする(ただ、プレゼンの段階では言葉による補足が可能であったりするのでまだいい)。

もう10年近く前になるが、ある企業の会社案内の表紙と本文デザインをやることになった。ちょうどその頃入社した新人の指導を会社から言われていたので、じゃあメインは俺がやるから、君も表紙を1案考えてみてと頼んでみた。しばらくしてMacの前で固まっている新人くんのモニタを見たら、

こういうものを作っていた。
うーんと思いながら、これは何だと聞いてみたところ、「いや、この会社が〝右肩上がり〟になるようにと思って」と言った。
聞いてみて少なくとも何を考えていたのかは分かった(まったくの新人に好きに考えてみてという無茶振りをしたのは僕なので、別にそれはそれで良かった)。この時は別のアドバイスをしたので上記のデザインはここまでだったのだが、最後まで作らせて僕が説得されるかどうか見てみるべきだったかと今は少し後悔している。

個人的に「説得力」で勉強になるのはアイコンやピクトグラムのデザインだ(企業のロゴもそうかもしれない)。要は「今年一年を漢字で表現するとしたら」をビジュアルでやっているようなものなので、情報の凝集力が半端ではない。こんな表現があったのかと目からウロコが落ちることもしばしばである。
しかしこうやって目からウロコを落とす経験をすることが、結局自分の表現に説得力を持たせる早道に他ならないのである。

あまりまとまらなかったか。

【告知】退職と移住に伴い福岡県で就職活動を始めています。土地勘があまり無いので(大学時代は小倉にいましたが)、アドバイスなどいただければ幸いです。餞別なども絶賛受付中です。お気軽にTwitterまでご連絡ください。