鳥取県のゆるキャラ「トリピー」に見る笑いの下降的不調和

哲学者のハーバート・スペンサーは、さかさまにしてもヒトの顔に見えるだまし絵のような風貌の人であるが、「笑い」について以下のような定義をしている(風貌は全く関係ない)。

「笑いは、意識が思いがけなく偉大なものからちっぽけなものへと移される時のみ、すなわち、下降的不調和とでも呼んでよいものがある時にのみ、自然と生じる。」

この定義の例としては、社会的権威のある人(政治家とか)がバナナの皮にすべって転ぶ、といった類の話がよく使われる。

この定義を敷衍すると、各個人の笑いのツボの存在は、その人がどんな事象を偉大と思っているか、その偏差で決まると言える。普段政治家の権威を認めている人は彼がバナナの皮ですべって転んだら権威の一時的失墜に笑うだろうが、うっかり八兵衛が今週もうっかりしてもお銀は「またか」と思うだけだろう。笑いのツボが違うのは、女教師が好きとか、衆人環視の中がいいとか、シチュエーション別フェティシズムと似たようなものかもしれない。
つまり簡単に言い換えれば「好み」の違いである(結局それか?)。
書いていて改めて思ったのだけど、僕は上記のように当たり前のことを解りにくく書く傾向がある。ネタばらしになって嫌だが、おそらく「できるだけ難しい文章で、できるだけくだらないことを書く」という「文体と内容の下降的不調和」が僕の笑いのツボなのだろう。
ウルトラマン研究序説」や「空想科学読本」みたいな本が好きなのはそのためかもしれない(もちろん、上記はいずれも優れた内容の本である)。

さて、本題。

mixi鳥取県のコミュに「こんなトリピーは、いやだ。」というトピックがあった。
トリピーというのは鳥取県の「夢みなと博覧会」のマスコットキャラクターである。2002年の「ゆるキャラショー」準グランプリを獲得したそうだ)
さっそく自分も投稿し、後からみんなの投稿を読んでみたところ、300近く投稿されている中で、僕の視点で「面白い」と思う投稿は2つあった。
(念のため言うがあくまで僕の視点の話で、人の投稿にけちをつける意図は全くない)

で、300ぐらいの集合になると、いくつかの傾向に分類することができる。
僕が見たところ、ネタとしてはだいたい3つに分けられた。

(1)トリピーにかわいくない性癖があるというネタ
(2)ご当地キャラクターなのに、郷土に背信しているというネタ
(3)キャラの見た目や属性とは関係がないネタ

圧倒的に多いのは(1)だ。例えば「隠れてタバコを吸っている」などが当てはまる。これが面白いのは「かわいい」がマスコットキャラの存在理由なのに、それを実は裏切っているというのが、下降的不調和を生んでいるためだろう。
(2)は例えば「実は島根県出身である」などが当てはまる。ご当地キャラは郷土を愛していて当然である、という前提が裏切られるのが下降的不調和を生んでいる。
(1)(2)は答えに関してもお題からしてある程度の「お約束」が予測できるのだが、僕が一番笑ったのは、
「5時間話した後に、相手がソフトバンクでないことに気がつく」
という投稿だ(自分の投稿より面白いと思った)。これは(3)に分類される。
これが面白い理由はトリピー関係ねえじゃん」という点だ。
トリピーという「かわいい、ご当地キャラ」についてのお題なのに、それを全く無視した、つまり「お題とそのお約束」という権威自体を裏切っているところに下降的不調和が存在するわけだ。

僕が何を面白いと思うかは、僕が何に対して「権威」と考える傾向にあるかと言い換えることもできるだろう。僕は「トリピー」および「鳥取県」ではなく「お題」を「インターネット上で行われている試験」と捉え、その権威を一番大きいと認めたのだともいえる。
ますます自分の投稿したネタがつまらなく思えてきたから不思議なものである。